この頃のこと(2024年8月10日)

 私はもともと酷暑・酷寒にはつよいはずだったが、7月半ばからの異例の猛暑は、私たちの体力の衰えのせいか耐えがたく、この頃は元気なくクーラーの中へ引きこもりがちで、シェスタのあとは、秘蔵の名画のDVD、小説の読書、室内の断捨離、食欲の出そうな食事の工夫などで過ごす。雑草に覆われる庭の草取りや枝切りに外へ出るのもためらわれる。なにしろ桑名や名古屋は、連日40度近いのだ。まして心臓弁膜症で投薬・経過観察中の妻には無理をさせられない。
 それでも本能的に、ときどきは外出したほうがいいと思う。以下、スナップは、ひとり気を吐く白のサルスベリ/7.4滋子86歳の誕生日・都ホテルの懐石レストラン/ 7.15四日市。韓国映画『密輸1970』をみた後、鰻丼の夕食までの時間を過ごした博物館でのツーショット/7.21、すでにFB投稿で紹介したが、四日市のシンポジウム「日常生活での憲法の空洞化を問う」で発言する私/ 7.28名古屋での「関生労働組合弾圧を許さない東海の会」で、早口ながら表情とゼスチャー豊かに魅力的な講演を聴かせた望月衣塑子さんと私(関西生労組関係者の写真は非公開とのこと)/8.3桑名の酷く蒸し暑い8.3の夜、あえて出かけたコンチキチンの石採祭り――である。

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オリンピック雑感(2024年8月15日)

 なによりもまず、パリ・オリンピックのNHK報道にはいつもいらいらした。それは競技のそのものよりは、もっぱら日本人選手の活躍についてのアジテーションをくりかえすみたいな報道だったからだ。前提として動かないのは、日本人すべては日本のメダル獲得に我を忘れて熱狂しているはずだという思い込みである。日本選手の勝利をとくに切望しているわけでない私なぞ「非国民」」なのだろう。とはいえ、日々の暮らしがままならぬ人びと、例えばこの猛暑のなかクーラーもつけられないでテレビをみるほかない人びとにとって、メダル・ラッシュなどはなにほどのこともないだろう。大会関係者もアスリートも、「日本に勇気と感動を与える」ためがんばったと思わないほうがい
 メダルラッシュと言うけれど、いまメダルの金を三点、銀を二点、銅を一点として計算すると、総得点はアメリカ(240)、中国(195)、フランス(118)、イギリス(113)、オーストラリア(104)の順番であって、日本(91)は6位である。まぁそんなことはどうでもいいが、報道は日本の強さを過大評価させるように思われる。
 ついでに言うと、競技後、メダル受章者は国旗をまとって小走りするが、彼ら、彼女らには国からの報奨金がある。ナショナリズム鼓吹の強弱の差なのか、報償は国によって大きな格差をもつ。『フォーブス』誌の東京オリンピックでのメダル獲得の報奨金報道によれば、国別のベスト10は、①イタリア、907万ドル(約10億円):金10、銀10、銅20/②アメリカ、784万ドル:金39、銀41、銅33/③フランス、651万ドル:金10、銀12、銅11/④ハンガリー、564万ドル:金6、銀7、銅7/⑤台湾(チャイニーズ台北)、492万ドル:金2、銀4、銅6/⑥日本、403万ドル:金27、銀14、銅17/⑦スペイン、255万ドル:金3、銀8、銅6/⑧トルコ、226万ドル:金2、銀2、銅9/⑨セルビア、201万ドル:金3、銀1、銅5/⑩香港、193万ドル:金1、銀2、銅3。一方、イギリス、ニュージーランド、ノルウェー、スウェーデンはなどは報奨金ゼロだ。日本は6番目に報償の大きい国である。選手たちが闘うのはむろんカネのためではなく、多額の報酬でその純粋さが損なわれるわけではないけれど、このことにマスメディアがいっさい触れないのはやはり問題であろう。
 私は、格闘技一般と、それに、たとえば水中で逆立ちするとか頭を下にして身をくねらせるとか、人がふつうやらない軽業めいた競技が嫌いだ。TVの実録、録画をあれこれさがして見るのは、日本選手の活躍報道に比較的偏しない陸上競技、それも走りと跳びである。そこにみるの肉体の躍動はとても美しい。それでも、しなやかな美のきわまる棒高跳びの放映は結局なかったのではないか。
 走りは距離にかかわらず緊張感がただようけれど、印象深いのは、長距離ではアフリカ在住の黒人、中距離、短距離ではアメリカはもとより、フランス、イギリス、イタリアなどの先進国に移民・定着した黒人が主力スターであることにほかならない。鞭のようにしなやかな汗に光る黒い肌の疾走は、セクシーですらあり魅力的だ。心から愉快になる。そしてそこであらためて痛感されるのは、国籍と人種の著しいずれである。日本でもその傾向は徐々に進んできたと思う。国家ごとに競技を競うというオリンピックの建前は、いずれもたなくなるのではないだろうか。

四日市市民シンポジウム 私なりの報告(2024年7月21日)

 7月21日(日)、猛暑の四日市で、「戦争させない・憲法壊すな よっかいち市民ネット」主催のささやかなシンポジウム、<日常生活での憲法の空洞化を問う! 草の根の護憲運動にむけて>が開かれた。くりかえしFBで情宣してきたように、私たちが日常的に属している「界隈」、具体的には学校や家庭や職場やSNS交信におけるルールや慣習にみる憲法の無視や蹂躙をみつめ、その界隈での強力な同調圧力に従う生きざまを反省的にふりかえる――そんな趣旨の企画であった。

 名古屋や京都から駆けつけて下さった方々をふくめて参加者はほぼ30人。学校、家庭、SNS交信、職場と労働運動の状況について4人の無償のパネラー(全員が女性)が各15分、体験や現状を語り、その後、1時間ほど10人以上の方の発言で質疑・討論を繰り広げた。

 ここにアンケートの回答をピックアップしてみる――日常から問題を問う方法論はとても良いと思う/それぞれの場での人権問題について経験や意見が共有され交流できるこのような機会は貴重だ/すべてのパネラーの話からコミュニケーションの重要さと現実のなかでのその難しさがわかった/SNSについて若い世代の思いが聴けてよかった/参加者が自由に発言できるのがいい/思ったよりも楽しかった/自分にとっての自由やともすればネグレクトしがちな「自分の痛み」を考えるよすがにしたい・・・と、おおむね好評であった。けれども、時間がたりない/それぞれ重要な問題のつながりを示す発言はあっても、もっと掘り下げた議論がほしかった/会場の都合でマイクがなく聞き取りにくかった・・・という、いくらか批判的な指摘も複数あった。

 主として企画・準備・運営にあたった私としては、日常の界隈における同調圧力の深刻さ、SNSの光と陰などの問題は一定共有されたとはいえ、日常生活を支配している界隈のルールや慣習、それに対する世智にもとづく人びとの適応を凝視する議論の掘り下げは、やはり道半ばに終わったように思う。すぐれて主催者の責任であるが、企画の趣旨を浸透させるにはなお「力業の無理」があったというべきだろう。アンケートの末尾には、「意見交換と討論を中心にした」「同じようなテーマのシンポジウムをくりかえしてほしい」との励ましの声もあったけれど、四日市の市民団体がこのようなイヴェントを「くりかえす」ことは人的にも財政的にも、もうむつかしいだろう。