映画への愛執はいつまでも捨てられない。今でも3日にいちどは観る。しかし最近、痛感するのは、劇場での新作には、テーマが特殊にすぎ時空的なスケールが狭いなどの点で、どこかなじめず、少し前の『愛を耕す人』のように素直に感動に着地させる作品が少ないことである。それでも、邦画の①『平場の月』(土井弘泰監督、朝倉かすみ原作)、洋画の『殺しのプロット』(マイケル・キートン監督・主演)、③『プラハの春』イジー・マードル監督・脚本)などは観てよかった。
①では、地方都市の40歳ほどのまじめな写植印刷工(堺雅人)が高校時代の同窓生に再会し、そのひたむきな愛がいちどはわけありの過去にこだわってかたくなだった女性(井川遙)の心を開かせるけれど、彼女は病死してしまう。全編、自転車の相乗りに象徴される質素な中年男女の生活感がにじみ、それだけに結末には深い寂寥の思いにとらわれる。②は、記憶喪失になった殺し屋の父親が、最後の仕事として息子の殺人をみごとに自分の犯罪と偽装し、罪人として安んじて忘却の世界に入ってゆく。物語のユニークさが光る。そして③は、68年チェコの自由化に対して侵攻したワルシャワ条約軍の弾圧のもと、ラジオ報道の自由を守りぬこうとした放送局員(ヴォイチェフ・ヴォドホッキー、スタニスラフ・マイエル、タチアネ・バウホーフォヴァー)らの姿を活写する。13年後の東欧革命の先駆となった抵抗の人びとの勇気と創意に、やはり感動を禁じえなかった。
一方、居間を劇場としてTV録画と、自作または購入のDVDで観る映画は、ときにマカロニウェスタンの『夕陽のガンマン』(セルジオ・レオーネ監督)など、物語の質が低く、弱者への軽蔑的な人間観がいやで、観なきゃよかったと後悔する作品もたまにはあるとはいえ、もちろん総じて名作・佳作ぞろいである。たとえば、ドラマの隙のない緊密性によってサスペンスフルな『暗くなるまで待って』(テレンス・ヤング監督、オードリー・ヘップバーン)。稀代の映画人チャップリンの名人芸を楽しめ、人間愛に満ちた『チャップリンの独裁者』。日本軍人の理不尽な精神主義の犠牲を正面から描く『八甲田山』(守谷志郎監督、高倉健、北大路欣也、三国連太郎主演)。ちなみに苦境を乗り超えた高倉隊が地元の女性ガイド(秋吉久美子)に敬礼を捧げる場面が、別小隊の将校(三国連太郎)の傲慢な民衆軽蔑と対比させて、この映画のメッセージを象徴して美しい。そしてルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐』は、快楽主義のダンディなオーストリア軍士官(ファーリー・グレンジャー)がイタリアの貴婦人(アリダ・ヴァリ)を誘惑し利用してすべてを奪う、その非情さをリアルに描いて、名匠の人間観照の冴えを見せつける。
とはいえ、このたび私が双手をあげて推奨したい作品は、あまり知られていない、古くからの映画ファンだからわかるかにみえる、次の6本の名作である。ごく簡単な紹介を加えて紹介しよう。
*ミッシング(1982年アメリカ):コスタ・ガヴラス監督・脚本
軍事政権下のチリ。保守的で決まりきった考えのアメリカのビジネスマン、エド・ホーマン(ジャック・レモン)が、行方不明になった息子を、彼と一緒に抵抗運動に協力していた妻のベス(シシー・スペイクス)とともに探す。チリとアメリカの権力による隠蔽のため捜査は難航し、息子は早々に殺されていたことがようやく判明するけれど、その過程でエドは、酸鼻をきわめる拷問や殺戮の実相を知り、息子夫婦のレジスタンスの意義に目覚め、それまでぎくしゃくしていたベスに敬意を覚えるように変わってゆく。彼が傷心のベスを支えるように寄り添って帰国の途につくラストシーンがとても美しい。『Z』など優れた政治ドラマの作家、コスタ・ガヴラスの傑作である。なお、昨年の日本映画に同じタイトルの作品(吉田恵輔監督、石原さとみ主演)がある。これも心をうつ作品である。
*ミスティック・リバー(2003.アメリカ:クリント・イーストウッド監督
幼い3人が路上で遊んでいたとき、ひとりが幼児性愛癖の老人に拉致される。長じて3人は、顔役風のジミー(ショーン・ペン)、刑事シーン(ケビン・ベーコン)、拉致された少年は気弱で情動不安定なデイヴ(ティム・ロビンス)に「成長」する。物語はその3人の体験と交流と関係のもつれをていねいにたどり、挙げ句の果てジミーがデイヴを殺してしまうという悲劇になる。情動不安のデイヴを懸命に支えながら思いがけず彼を死に向かわせることになる妻セレスタ(マーサ・ゲイ・ハーデン)の佇まいがかなしく心に迫る。C・イーストウッド主演の作品、彼の監督作には凡作も多いけれど、暗い色調のこの映画は、私見では、『チェンジリング』、『父親たちの星条旗』とともにベストスリーに位置すると思う。
*西部戦線異状なし(1930.アメリカ):ルイス・マイルストン監督
第1次大戦下のドイツ。教師の熱狂的な愛国主義に煽られて従軍したパウル(ルー・エアーズ)は、あまりに過酷な戦場体験に打ちのめされる。帰郷しても心の居場所がなく、かつての教師を激しく非難して生徒たちに志願の拒否を勧め、みずからはまた戦場に戻ってゆく。そして塹壕の外に舞う蝶を捕らえようと身を乗り出し、狙撃されて死ぬ。「その日、西部戦線異状なし」とアナウンス。戦争の実態の徹底してリアルな描写がすさまじい。原作はレマルクの名作。優れた反戦映画の白眉であり、先駆的な古典ということができる。
*イミテーションゲーム エニグマと天才数学者の秘密(2014年、アメリカ、イギリス):モルティン・ティドウム監督
ケンブリッジの天才数学者アラン・チューリング(名演のベネディクト・カンパーヴィッチ)は、陸軍の暗号解読機関のチーフに抜擢され、はじめは彼の強烈な自尊心を嫌っていた同僚たちとも協同して、ドイツ軍のすぐれた暗号システム・エニグマをついに解読して、連合軍の勝利に大きく貢献した。だが、アランはホモセクシュアルであり、その行為で当時は非合法であった同性愛の罪で投獄される。そして過酷なホルモン投与の「治療」で生きる気力を奪われ、54年にはみずから命を絶ってしまう。やがてイギリスは97年から2013年にかけて同性愛の合法化と権利擁護に歩を進め、エリザベス女王は後のコンピューターの基礎となるチューリング・マシンの研究を死ぬまで続けていた彼に謝罪して、名誉回復を講じたという。余韻を残すエピローグである。
なお物語のなか、アランの同僚であり、かりそめの妻となった闊達で聡明なジョーン(キーラ・ナイトレイ)が忘れられない。彼女は、偏屈なアランと同僚たちの関係を温かく取りもち、死の前には、憔悴したアランを訪れて、あなたはどれほどたくさんの市民の命を救ったことでしょう、あなたが必要なの、自分の主催する研究所の所長になって!と励ますのだ。その瞳も、その言葉も美しく、老いた映画ファンを涙ぐませるに十分だった。
*ヴィレッジ(2023年、邦画):藤井道人監督・脚本)
巨大なゴミ処理所と伝統的な能舞台のある寒村を舞台に、殺人・放火・自殺の父をもつ無気力な片山優(横浜流星)、帰郷して優をいたわり励ます中井美咲(黒木華)、主人公を取り込んで支配する顔役の大橋修作(古田新太)、優に嫉妬して美咲につきまとう無頼の息子・大橋透(一ノ瀬ワタル)などの愛憎がくりひろげられる。その過程で、優の村の宣伝役としての華やかなマスコミ登場、嫉妬のあまり優を暴行して痛めつける透の美咲によるやむをえない殺人、ゴミ処理所で続けられてきた医療ゴミ不法投棄の隠蔽工作・・・などが複雑に錯綜し、すべてが破綻する。その挙句、優はすべてを隠蔽して後継者になれと迫る修作を、父のように殺人し放火するにいたるのである。物語の基調にある暗さや暴力性ゆえに、あまり喧伝されないけれど、これは傑作『新聞記者』を贈った藤井道人のもう一つの労作であり、そのストーリーの緊密さがもたらすサスペンスは、今の日本映画にはあまり例をみないように思う。
*ええじゃないか(1981年.松竹・今村プロ):今村昌平監督、今村昌平・宮本研脚本
1966(慶応2)年の江戸東両国は、離村の農民、職人、浪人、娼妓、芸人・・・が群れ、異国の象までも練り歩く喧噪の界隈。そこで展開されるのは、アメリカに漂流して一時滞在し送還された農民の源次(泉谷甫)と見世物小屋に売られた妻イネ(桃井かおり)との一筋の愛が、機をみるに敏な金貸し(三木のり平)、薩摩藩武士(寺田農)、フランス軍に武器を売りながら打ち壊しによる略奪を画策する顔役・金蔵(露口茂)・・・などの支配と操作に翻弄されて、別れと再会を続ける物語である。そのほか、琉球で薩摩藩に妻子を虐殺されたイトマン(草刈正雄)の復讐など、多様な登場人物やエピソードも興味深いが、ここではあえて割愛する。そして、東両国に蓄積されていた民衆のエネルギーはここにきて煮詰められ、沸き起こったアモルフな「ええじゃないか」のかけ声と踊りとデモが沸騰し、ついに両国橋を越え、東にあふれ出すのだ。女たちの「尻をまくる」抵抗の後、しかし、洋装の幕府陸軍の発砲は源次や金蔵など何人かの死をまねき、人びとは東両国に押し戻されるのである。宿願を果たしたイトマンの琉球への舟出を送ったあと、イネは虐殺の場の血染めの土をかきむしり、またやるよ、やめないよう・・・と泣き伏す。
ゾラの『ジェルミナール』(フランス革命暦での「芽生え」の月)での蜂起の描写が想起される。江戸下町の新旧ごった煮の風物の濃密さ、群衆シーンにみる民衆エネルギーの熱量、そのアナーキーな「革命」志向の鮮明さ。このような映画を今の薄味の日本映画界はもうつくれないだろう。今村昌平の秀作群のなかではイチオシとはされないが、これはわが愛執の一篇にほかならない。






































