10月4日土)、大阪心斎橋の中華料理店・大成閣において2005年甲南大卒業の熊沢ゼミナール生(私の担当ゼミとしては最後から二番目)の同窓会が開かれた。ほんとうに懐かしく楽しい、忘れられない集いだった。
男性5人、女性4人、ほかにメッセージ寄せ2名の参加。いま40代はじめの彼ら、彼女らは、それぞれが、銀行の管理者、会社の企画・事務・人事・営業、教育委員会、自営クリニックの歯科衛生士などの仕事で、幼児から中学生に及ぶ育児で、あるいはその両立で、懸命にがんばる近況を語ってくれた。頻繁な転職などさまざまにしんどいことはあったにせよ、言葉の素朴な意味でみんな健全でたくましい。初期には長くフリーターだった青年が今は堅気のサラリーマンで、父親になっていることもうれしかった。男たちは凜々しく女たちは美しい。もう87歳で隠退の私にはまばゆいほどの、男盛り。女盛りの魅力がある。それに思い上がりかもしれないけれど、彼ら、彼女らは、私の講義、ゼミ、それに後述する「演劇」などで学びあったことを、大学時代で最もすばらしかった体験として、その言説を今なお一定内面化しているように感じ、教師冥利につきると思ったものである。その上、私は「見た目」も声調も、FBやHPを覗けば見識も表現力も現役のまま?、これで最後などと言わないでほしいと励まされもした。
私がこの期のゼミ生に「最後に」会いたいと思って、大手銀行の支店長である女性に企画と運営をお願いしたのには、それなりの理由がある。2004年、経済学部伝統のゼミナール研究発表大会に、熱心なゼミ生が層として存在したこの学年、思い切って労働問題を扱う演劇をやろうと提案し、画期的にもそれが実現したからである。
確かにはじめのあらすじを描いたのは私だ。こんなお話である──卒業後10年、ゼミの同窓会が開かれる。その場では銀行員、広告会社の営業キャリアーウーマン、業界紙の記者、航空会社のCA、雇用不安定のフリーターD、出産・育児で退職を余儀なくされたA(後に見るように、この職種は学生自身の選択である)などが、教授に問われるまま、自分の仕事の光と影について交々に語る。そこへ親友の菓子メーカーの製品試作に携わるBから、恋人のファミレス店長Cが、仕事のあまりの負担のために心身消耗し、突然「おらんようになってもうた(失踪した)」ので今日の同窓会に出られないというという電話が入る。Aは最近、Bと話したが、その喫茶店に呼ばれてきたCは終始、自暴自棄的で不機嫌、彼女らのアドヴァイスを「言うてもしゃぁないやろ」と怒って帰ってしまった(この場面にはサブ場面を設定)とみんなに語る。一同は仕事上の心身の疲弊や過労死について話し、それぞれがみずからの働き方についを振り返ったりもする・・・だが時間がたって、BからAに電話がくる。ふたりがよく行った須磨海岸でCが見つかった!Cは、こんな会社に人生を振り回されるなんてつまらん、転職してやり直すと言ってる、今から会場に駆けつけるから・・・と弾んだ声。みんなに元気がみなぎってくる。Cと同じく自暴自棄の様子だった不遇のフリーターも、そうや、僕らの時代、僕らの仕事なんだ、言いなりにならないように、やれるとこまでやらなきゃ、と言い出す。いつも付き添うお姉さん役だった広告代理店の営業ウーマンが励ますように手を添える。エンディングは中島みゆきの「初めまして明日」だ。
私はゼミ生に、夏休み前になりたい職業、なりそうな職業をみずから選び、徹底的にそれぞれの仕事の実情を調べ、あらすじにそって神戸言葉で台詞を書くよう要請した。それゆえ上の細部も、ゼミ生の「共同脚本」の示すとおりである。9月、私はその共同脚本の読み合わせを聴いてよくやった!と感動した。そこにはきわめて具体的に仕事のやりがいの裏にへばりつく特有のしんどさが盛り込まれていた。たとえば、広告代理店の営業ウーマンにとってつらいのは、プライヴェートの時間にも会社から仕事の電話がかり、出なければ翌日とがめられること。いま読んでも、この共同脚本は、つたないかもしれないが胸にじーんとくる。9月以降、私はごく細部の用語や所作──たとえば演劇で大切なことはいましゃべっている人以外の人物が何をしているかということ──についてのアドヴァイスのほか一切口出ししなかったのである。
むろん知りたくても消息のわからない卒業生もいるけれど、10月4日に参加したのはすべてこのシナリオライターであり役者たちであった。近況報告のとき「私はMR(製薬会社の営業担当)で・・・」と劇の役どころを言ってしまって笑いを誘ったこともある。私もふくめ朗らかな盛り上がりはまことに自然だった。彼ら、彼女らに幸多かれ!と祈りたい。
写真は幹事役の劇中Bさんから送られたもの。最後は難波まで見送られる途上の戎橋付近。


