10月に<新書ア・ラ・カルト>をFB投稿・HP収録をすませて以来の社会・人文科学系の読書体験は乏しい。本当に勉強しなくなったと思う。しかし、近刊の「軽い」本ばかりだが、そのうちでは、次に挙げる①石田陽子『不屈の人――物語「女工哀史」』(岩波書店)、②ナオミ・クライン<星野真志訳>『楽園をめぐる闘い』(堀之内出版)、③若月澪子『ルポ過労シニア――高齢労働者はなぜ激増したのか』(朝日新書)が良書だったと思う。
①は、細井和喜蔵と生活をともにした高井としおの生涯を描く評伝。としおは紡績女工を続けながら病身の細井を支え、名著『女工哀史』を完成させる。しかし公式の妻でなかったゆえに印税取得ができず、貧困のうちに関東大震災や弾圧や戦争の激動の時代を生きぬき、戦後はみずからも従事した画期的な「ニコヨン」の自由労働組合を立ち上げた。そのいつも権力に屈しない凜とした不屈の生きざまに感動を禁じえない。②は、コスタリカの民衆が、アメリカ帝国主義の強いる植民地経済ゆえの貧困と抑圧に対して、農民自前の自然農法のコミュニティを基盤に自由と自立を取り戻してゆくすばらしい営みを語る。
③は、清掃、警備、駐車場管理、倉庫での運搬、工場での箱詰め・・・などの職場で働く高齢非正規労働者の実情の報告である。高齢労働者は文字どおりの単純労働であり、給料はほとんど地域最低賃金水準である。胸に迫るのは、なお続く息子や娘の奨学金返済、彼ら、彼女らの就業時の過酷な体験に起因する引きこもりや労働意欲の喪失(もっとも深刻な80-50問題!)、みずからの病気ゆえの医療費・・・といった働かざるをえない動機である。短時間の不安定雇用で年収も150万円ほどにとどまる。例えば「E」さんは、派遣社員として、大手通販会社の物流倉庫で、カートから商品をとり、通路の両側に並ぶ引出しを選び、バーコードを確認して引出しにしまうという一連の作業を9秒以内に終えよと「指導」されている。そのスピードノルマの達成度は翌朝に掲示され、作業員はランクづけされるという。経歴上から無年金のまま、慢性腎不全で人工透析を続けながら、若者やフィリッピン女性などに遅れをとらないように彼は必死で頑張る。時給は1300円だ。このような多くの不遇の高齢労働者は、低学歴ではじめから非正規雇用として雑業のパノラマのなかを浮遊している。なんという「老後」だろうか。このようなルポは、研究は引退してもやはり読み続けたい。
④欧米のように管理者と労働者の峻別がなく、両者が職務上もキャリア展開上も連続的な日本的雇用慣行のなかで管理者を法的にいかに取り扱うか。濱口桂一郎『管理職の戦後史――栄光と受難の80年』(朝日新書)は、労働法学者、官僚、実務者などの時代ごとの言説を丁寧に引用して、この難問への挑戦の軌跡を克明にたどる研究である。管理者という存在の明暗がさして具体的に描かれるわけでなく、文献引用で埋め尽くされた内容なので、かならずしもおもしろく読める本ではないが、法制に弱い私にはしたたかに勉強になった。今後このテーマにふれるならば、まず参照されるべき労作ということができる。
⑤テーマに惹かれて繙いても、期待していたことが軽視されていて、立派な研究かもしれないがなじめない書物がある。私の場合、池本大輔『サッチャー 「鉄の女」の実像』(中公新書)がその典型例であった。
1984-85年のイギリス炭鉱労働者の長期ストを最後の著書とする私にとって、ストライキに徹底的に対抗して勝利を収めたサッチャーが、なじみある人間像であることはいうまでもない。けれども、本書は、70~80年当時のイギリスの政局、閣僚人事、外交、なかんづくアメリカやEUへの彼女の対応について過剰なほど詳細に記述する一方、サッチャーの施策が労働者や庶民の生活と文化に与えたインパクト、彼らからみた「鉄の女」への「期待」と嫌悪がほとんど具体的に描かれない。炭鉱大ストライキについても卑俗なタッチで大雑把にふれるだけだ。だが、あの大ストライキは、労働者・労働組合の発言権のゆくえ、彼らが大切に守ってきた生活のこれからのありよう、ものの考え方という意味での文化の存廃をめぐる闘争ではなかっただろうか。政治過程・外交過程論に偏った池本の著書は、庶民の生活意識、労働者階級の思想と文化、代表的には産業民主主義の意義についてあまりにも無関心なのである。その結果、サッチャーという個人の哲学も、その新自由主義的な政治が資本主義経済に一定もたらした「光」と普通の人びとが競争の生活に追い込まれるという「影」も、かならずしもすっきりしないままであるように思われる。
さて、いつも手放すことのない小説に目を転じよう。、この時期に特記すべきは、相次いで角田光代をいずれも楽しんで読んだことである。男に捨てられ妊娠して故郷の島に帰った女性が、すべてに無関心で大音響のロックに浸っていた認知症気味の母が産声に号泣するという短編 「ロック母」(講談社文庫2010年の初期短編集所収)にはなぜか泣かされ、何ごとも包み隠さず」がルールである京橋家の家族みんながそれぞれに秘密を抱えていて、本当は虚構の一体性が鬱陶しいけれど、結局「家族」は持ち直すという物語『空中庭園』(文春文庫、原著2002年)もおもしろかった。しかしここでは、とくに①『対岸の彼女』(文藝春秋社、2004年)と、②『坂の途中の家(朝日文庫、原著2016年)に注目しよう。ストーリーを細部まで再現できないが、①は、大学時代の友人・シングルの楢橋葵が経営する旅行斡旋・委託清掃の零細企業で働くようになった主婦・小夜子と葵、葵と高校時代に家出と心中未遂までともにした家族関係に恵まれないナオコ、その二つの交流でのある時の訣れと絆をきめ細かく描いている。②では、家事と幼い女児の育児を担って家庭に縛られていた里紗子がたまたま、幼い娘を殺してしまった水穂を裁く裁判員になり、その過程で水穂と自分の生活条件の共通性を心に刻む、水穂は私だ、と。
①と②の主人公の主婦はともに、実の祖母にも、夫びいきの義母にも、また理解あるようにみえるけれど本心ではとかく自分を低く侮蔑的にみる夫にも、抑圧と緊張を感じている。また育児にも周囲の「標準」に照らして賞賛されず、自信をもつことがない。つまり家族との関係ではつねに重い鬱屈を抱えている。経済的にも自由になるお金が乏しい。つまり評判の「良妻賢母」や「幸せな専業主婦」ではない。これらの作品には、時間の余裕がない日常生活の細部が実に細かく、例えば選んで買う惣菜の値段、夫の心ない言葉、(①では就業してからの)清掃業の仕事作法などが丹念に書き込まれている。就業時や外出時に義母に幼い娘を預け、息せき切って引き取りに行ってたとき持たされる義母のつくる食事パックが疲れた身に重すぎるつらさがくりかえし語られる。育児や家事の専担を強いられる女性に日々のリアルな描出が、フェニミニズムの理論に疎い私の心にも響くのである。
だが、角田光代の魅力は、その鬱屈がシスターフッドによって切り裂かれる爽快さだ。そう、女性同士のお互いのやりきれなさの理解や相互扶助の連帯。①では、かつてひとみしりだった葵は奔放なナオコに惹かれ、主婦規範にとらわれていた小夜子は時間を気にせず遊びに誘う葵に惹かれ、何でも話し合い、笑いさんざめき、自由と万能感を得る。「楢橋さんといっしょだと、なんだか何でもできそうな気がする」と小夜子は葵に言う。それは葵がかつてナオコに語ったのと同じ言葉なのだ。後に失踪するわけありのナオコの、ときに「まじめ」の規範を超えるまでの自由と闊達は、それを内面化した葵を経て小夜子に伝わる。そして、しがらみをもつ私は縛るもののない葵とは違うんだといったんは葵を離れた小夜子は、やはり葵との協同の職場に戻ってゆく。そして夢想のうちに小夜子は、対岸の葵とナナコに呼びかけられて、両岸をつなぐ橋に駆けよるのである。
②の里紗子は、裁判員として水穂の生活背景への理解を真摯に述べた後、懲役9年の判決を聞いて涙ぐむ。裁判所を去るとき、里紗子は、誰かに呼ばれた気がしてふり返る。誰もいないが「里紗子はたしかにみる。・・・白いワンピースを着てじっとこちらをみている女を。里紗子は一礼する。さようなら。小さくつぶやく」。誰かいた?と同行の女性に聞かれ、里紗子は答える。「よく知っている人が」。その終幕の美しさが私の心に浸みる。 その直前、娘を預けている義母や夫との関係も、里紗子が自立的なそれに変えようとすることも示唆されている。角田光代はこうして<シスターフッドによってこそ培われる女性のエンパワーメント>を鮮やかに描き出し、草の根のフェミニズムの確かさを抱きしめようとしているかにみえる。