その23 連合幹部の政治的立場を問う

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 現代日本の労働組合運動に対する私の根本的な批判の要点は、①非正規労働者の被差別的処遇の改善の傍観と、②いじめ・パワハラ・長時間労働、過重ノルマ、過労死など心身を疲弊させる労働現場の苦しみを<個人の受難>とみなすことによる、組合としての連帯的規制の放棄である。くわしくは、さしあたり動画欄の短い講演「存亡の危機に立つ労働組合運動」の参照を乞いたい。しかし、このエッセイで扱いたいのは、もっとトピカルなこと、芳野友子連合会長の最近のあまりに無定見な政治的発言である。周到な準備のない思いのままの叙述である。より専門的な分析と見解をお持ちの方には忌憚ない修正や批判をいただきたいと思う。
 芳野友子は、今日、「労働問題は多様」だから、各政党とは「是々非々」でつきあいたいと述べている。皮肉にもこれは組合の政党支持自由の原則に通じる考え方であり、それはそれで正しい。だが、むろん連合幹部の真意は、立憲・国民(民主党)支持を軸としながらも、場合によっては「新しい資本主義」を掲げる自民とも手を組む(事実、トヨタ労組はその方向に進んでいる)こと、そしてなによりも共産党を排除するということにほかならない。
 枢要のポイントは、政権への接近を前提にする、最大野党・立憲の共産党との絶縁の要求である。読売新聞オンライン(11.24)「総選挙総括」の報道によれば、芳野友子はすでに総選挙の敗因として、連合はもともと共産党とは相容れないのに、今回は立憲が共産に接近しすぎた?、共産党が「のさばって」「現場の」組合員に戸惑いが生まれ、立憲の選挙運動の「動員」に混乱があった――などと口走っている。端的に言えば、芳野の連合は決定的に右傾化しつつある。ファシズム化が共産党の排除にはじまるのは、戦前日本のみならず、世界的にもいくつかの実例があることをここで想起しておきたい。

 では、連合はなぜこれほど共産党の進出を怖れるのだろうか。そもそも共産派が「閣外からの限定共闘」を前提にして、市民連合を媒介にした立憲・共産・社民・れいわの共通要求のため、選挙運動に「入り込む」のはまったく自由ではないか。思うに連合は、共産派の「動員手当」なき総じて献身的な立憲支持の選挙運動が、労働者の共産党アレルギーを中和し、連合の「反共」の大前提を揺るぐことが心配なのだ。
 いや、そもそも共産党の綱領や基本政策が相容れないのだと連合幹部は主張するかもしれない。だが仮定として、立憲中心の政権が実現した暁に、新しい政府が、閣外協力の共産党に引きずられて、共産党の綱領にあるとみなされているという安保条約や自衛隊や天皇制などの廃棄・廃止に着手すると想定するのは、例えば政権交代を超える外交の一定の連続性という政治過程の常識ひとつに照らしても、あまりに非現実的であろう。自民党がなお貼りたがる「敵の出方次第では暴力革命」というレッテルにいたっては笑うほかない。共産党はすでに一党独裁を否定する議会主義の政党である。もし、非暴力の圧倒的な質量の大衆運動が議会を取り巻き、議会が大きな変革の決議を余儀なくされる場合、それは厳密な意味での暴力革命といえないだろう。それに幸か不幸か、今の共産党は体制変革をめざす労働運動や民衆運動に依拠しようとする思想性を備えてはいない。
 共産党について、現代史上いくつかの歪みや誤りを避けられなかった故事来歴をあげることはさしてむつかしくない。また私自身も、現在の共産党については、「ジェネレーション・レフト」的な立場から、基本的な綱領上の政策にも、民主集中制の運営にも注文をつけたいところがいくつかある。だが、かつて率直な碩学R・ド-アが個人的な会食の席で語ったことだが、共産党はいまもっともまじめな社会民主主義の政党だということができる。もちろん共産党も、来たるべきあらゆる政治勢力による息苦しい包囲網を突破するためには、人びとの伝統的な疑問や危惧のイメージを払拭するために、国内外のありかたに関わる大きな路線選択について、今こそ忌憚なく真意を明らかにすべきであろう。中国や北朝鮮の非難に留まってはならないのだ。しかしいずれにせよ、くりかえせば、私たちは民主主議の名において、連合幹部の鼓吹する反共主義・共産党排除を決してゆるしてはならないのである。

 芳野友子は、とはいえ、労働界の真の権力者ともいうべき民間大単産・大企業別組合のボスたちに祭り上げられた傀儡なのではないかという気もする。ボスたちは世論の反発を予想して自分ではいえない本音を、ボスたちの意向を忖度してしゃかりきに存在感を示そうとする初の女性会長に語らせようとしているかにみえる。事実、上にみた連合の総選挙総括は、旧総評系の官公労労働組合から当然、一定の反発が予想されるだろう。
 しかしそんな私の「忖度」よりも大切なことは、上のような芳野の反共主義・共産党排除は本当にふつうの組合員の共感を得ているのだろうかということである。
 この点は、はじめに述べた根本的な批判の②にも関わる。今日、同僚のハラスメントや過労死自殺について沈黙を守るのと同様に、職場のふつうの組合員は政党選択や個々の政治課題についても、つよい<同調圧力>のなかにあって、連合や当該組合の勧めるラインとは異なる見解を自由に表明することがためらわれる状況におかれているのではないだろうか。例えば共産党の言う、例えば政党支持の自由や、最低賃金1500円論は正しいとあえて語る従業員は、暗黙の統制によって職場で「そっち系」の者とみなされ、その後ある不利益をまぬかれないように思われる。そうして口をつぐむ。この「空気」が、手当を受けとって選挙運動には動員される労働者の自立的な政治意識を空洞化させているのだ。私がそう推定するのは、野党統一候補の主張が「共産より」で危険などというボスたちの表明が、市民でもある労働者の日常意識に内面的に定着しているとは思えないからである
 私はかねがね、連合や単産は、政党選択や野党各党の個々の具体的政策について、第三者機関による匿名性の保証されたアンケート調査を実施し、その結果を公表してほしいと主張してきた。それができないかぎり、芳野友子らの政治的発言は、表現の自由を拘束した上での「労働者大衆の見解」の僭称であり、今後、その線に沿う選挙活動の資金支出は組合費の不当な流用とさえいうことができる。     2021年11月25日記