今年の夏以降は、くりかえし投稿してきたように、私と妻の入院や手術が続いて、心のゆとりをもてない「余生のための闘い」の日々だった。それでも、一方では酷暑に閉じ込められて外出を控えたことのうえ、とくに「闘い」が一応終わってからは午前の一定時間、習性の社会・人文・歴史分野の読書にふけることができた。といっても、もう専門の労働研究の浩瀚な専門書ではなく、主として新書である。ずいぶん冊数を数えたが、そのうち7月以降に繙いた作品について、よかれあしかれ印象に残った新書いくつかについて、精密な紹介とはいえない簡単な感想を、気ままに記したい。私自身の読書ノートでもある。
まず、そのクリアーな問題意識、共感できる視角、新書に不可欠な素人にも理解可能な叙述の具体性などにおいて、「読んでよかった」労作もがいくつかある。
その筆頭は林博史『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社)である。県民の4人に1人の死は「戦争だったから」としてしまうのはゆるされない。日本軍、地方政府、校長など地域ボスが、根こそぎの、投降を許さぬ督戦によって、膨大な沖縄人を絶望的な戦場に送り込み、あるいは不確かな「スパイ」容疑でみずから手にかけたのだ。林は、豊富なエピソードを重ねて、「日本の常識」にとってあまりに耳の痛いこうした命題を実証している。この本を読んだ感銘は、深く私の心に刻まれている。
次に今野晴樹『会社は社員を二度殺す 過労死問題の闇に迫る』(文藝春秋)。私にもなじみ深い過労死・過労自殺の事例紹介それだけで有意義であるが、本書の特質は、本人の死後、遺族たちが遭遇する会社や行政の対応の非情さに注目するところにある。そこに長きにわたり相談活動に携わってきた今野の強みが生かされている。また、階級分析の第一人者の橋本健二は、『新しい階級社会 最新データが明かす<格差拡大の果てに>』(講談社)において、みずから実施した大規模調査の詳しい紹介を通じて、5階級の経済状態、生活水準、意識などあらゆる面での格差の状況についてみごとな俯瞰図を与えている。これまでの橋本の類書と比べての本書の特徴は、①非婚ゆえにみずからは再生産しないけれど中流階級の没落によってその規模は一定維持される、非正規雇用者中心の「アンダークラス」厳存の確認、②性別格差という視点の重視、③階級所属や支持政党からは相対的に独立した思想のクラスターの摘出と、「リベラル」「伝統保守」「平和主義」が連携して、少数だが政治的権力のつよい「新自由主義右翼」に対抗するという路線の提起であろう。
そのほか、藤原辰史『給食の歴史』(岩波)は、なじみの制度でありながら、その現実があまり知られていない給食の明暗を、貧困や災害のインパクト、関係者の運動、教育効果といった諸点を考慮し、その歴史的展開をふまえてきちんと描く。初版は7年前であるが、類書のない、このテーマの必読文献である。
ほか岩波新書の近著では、友松夕香『グローバル格差を生きる人びと 「国際協力」のディストピア』と、吉田敏活『ルポ 軍事優先社会――暮らしの中の「戦争準備」』がおもしろかった。前者は、西アフリカ・ガーナの体験が中心の考察ながら、善意ある先進国の「国際協力」・「開発援助」が、避けがたい供与国・被供与国の上で関係の中でどのようにゆがんでゆくかを描いている。ユニークな視点で学ぶところが多かった。後者は、安保三文書と敵基地攻撃能力の宣言以来、南西諸島や本土で、ミサイル基地や弾薬庫の整備、オスプレイの配備、自衛隊に「若者名簿」を提出する自治体の輩出、自衛隊と米軍の一体化、空港や港湾の軍事利用の可能化などが、いかに人びとの福祉と生活を圧迫し、表現と行動の自由にインパクとなるかを明らかにする。『世界』と『前衛』に連載されたものであり、革新系野党の主張に慣れた読者にはすでになじみのものという感は否めないけれど、網羅的で目配りがよく、これはやはりいま私たちが直視すべき危機のきっぱりした提示ということができよう。
さて、新書との出会いがいつもすばらしいとは限らない。「その2」では、私の方の見識不足や感性の鈍化せいかもしれないが、確かに労作と認めはしても、よんでみてなんらかの意味で不満を感じたいくつかを紹介したい。
例えば井上寿一『新書 昭和史――短い戦争と長い平和』(講談社)。グローバリゼーション、格差、デモクラシーという「三つの観点」から、1926年~2025年を、戦前・戦中を4期、戦後を4期にわけて描く野心的な大作であるが、主内容は、天皇、政治家、作家、文化人、一般国民など階層や思想的スタンスがきわめて多様な日本人の行動や証言の集成である。博引旁証で興味深いエピソードも少なくない。しかし私には、「集成」がいささかとりとめなく、鋭い問題意識に貫かれた歴史のなかのひとすじの底流の把握が不明瞭だと思われる。「おわりに」の総括でも、推測される井上の保守中道的スタンスのゆえか、日本の近・現代史の負の遺産を凝視して、なお現在の深刻な状況を超える方途の示唆は不明瞭だ。吉本隆明『追悼私記』(筑摩2000年)や斉藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』(岩波2017年)のような、本来とりとめなさが許される種類の新書ならそれはそれでいい。しかし日本人の現代史体験にとりくむ作品はそうはいかないのである。
新書に不可欠なことは、誰にも理解できる具体的な事実の提示をもって著者の擁する論理や思想を諄々と説くことだと思う。主内容がふつうはあまりなじみのないアカデミックな、あるいは「マニアック」な文献紹介の解読であるような作品は私のようなその分野の素人にはすべてを理解できない。広く読まれている鶴見太郎『ユダヤ人の歴史――古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(中央公論)と、小川公代『ケアの物語 フランケンシュタインからはじめる』(岩波)がそうだった。
前者は、「3000年の歴史をもつユダヤ史を雄大なスケールで描く」。この惹句によれば私もふくめて読者が期待するのは、歴史を通じて数多の権力国家に翻弄されてきたユダヤ人の具体的な体験史であろう。いくつかの大国に離散・放逐・あるいは被差別的ながらも抱擁されてきたユダヤ共同体の自治、適応、面従腹背の物語も確かに描かれる。しかしその具体像の記述は本書では比較的あっさり描かれ、詳細に紹介されるのは、古い文献による共同体の地域間の相違、分派、それぞれの内部での法典・戒律の解釈と実践、いわば宗教学的な分析であり、私のように予備知識のない者には、用語からして難しく、ダイナミックな大筋を理解しがたいのである。例えばいま、ホロコースト体験をもつユダヤ人が、歴史上もっとも彼らに寛容であったムスリムを殺戮してやまない悲劇はなぜ生じるのか。そんな素朴な知識欲が満たされない。
後者は、性、人種、階級、性的志向、障害、あるいはそれらの重なりなどによって「弱者」とされる者たちの人生を掬う思いやり、すなわちケアの大切さを、東西古今の文学、映画、アニメなどの渉猟を通じて語ろうとするユニークなアプローチである。けれども、ロマン主義文学を専門とする小川がもっぱらページを割くのは、これら弱者の具体的な状況ではなく、上の差別要因のほとんどにふれているという「フランケンシュタイン」を中心とした、多くは私には未知の小説やアニメのストーリー紹介である。ときには、はたと膝を打たせる指摘にも遭遇する。たとえば、諸差別要因の「加算」にとどまらない重合の大きな役割、「インターセクショナリティ」などがその例である。しかししばしば、すべての記述を納得して内面化できない戸惑いが続く。介護ルポなどに慣れた者には、これが「ケアの物語」と言われても困惑するのだ。本書はむしろアカデミックな研究書として刊行されるべきだったと思う。
最後に、蛇足ながら、ほぼトータルに反発を感じた稀な書物として、エマニュエル・トッド『西洋の敗北と日本の選択』(文藝春秋)をあげておく。この御仁は世界的に著名な歴史人口学、家族人類学の泰斗らしいが、この本は主として文春編集部(翻訳も編集部)に語った七つの講話を寄せ集めた、なくもがなの本というほかはない。
トッドは言う――「西欧民主主義」はいま、労働倫理はもとより、自由、知性、批判的思考・・・といった理想や価値観の消滅によって崩壊しつつある。トランプのアメリカをみれば確かにそうかもしれない。彼はしかし、道徳の崩壊に加えて技術(エンジニアや熟練労働者)、製造業、さらに軍事力の衰退などをみてアメリカの行方を絶望視する惰力として、日本はもう頼りにできない日米同盟を脱し、自衛のために静かに核武装すべきだと論じて、私たちを仰天させる。
トッドはまた、ウクライナ戦争においても生産力と周到な世界戦略を保つロシアが勝利するだろうと言う。その見通しはともかく、私が決して承服できないのは、ウクライナ戦争を引き起こしたのはロシアの強い警告を無視してNATOの拡大を画策したアメリカであり、ロシアは自衛のための軍事作戦に着手せざるえをえなかったという、アメリカ元凶論である。正当な議論だろうか?
長年、ソ連・ロシアに犠牲を強いられてきたウクライナがNATO志向になるのは当然であろう。プーチンのロシアは、おそらく過剰の警戒心を襲われて、ウクライナを一方的に侵略し、住居や病院を破壊し、家財を略奪し、人びとを殺戮し、拷問し、子供たちを連れ去った。あらゆる戦争犯罪が行われている。多くのウクライナ人は、むろん西欧の援助を受けてではあれ、犠牲を顧みず抵抗し続けている。彼ら、彼女らは、かつての横暴なロシア、そして眼前で蛮行をくり返すロシア、そのような国になりたくないのだ。ロシアの支配に屈したくないのだ。現実の選択として、いつかは領土割譲などの現実的な妥協を迫られるかもしれないけれど、今は以上のこと、それのみが私たちが依拠すべき真実なのである。
時代を認識すべき知識人のはずのトッドは、ロシアによる多くの市民の殺戮をはじめとする戦争犯罪について、ウクライナ人の心情や選択についてなにひとつ語らない。かりに西欧の現実が絶望的だとしても、なぜここまでロシアに無批判になれるのだろうか? 本書は、日本でもときに聞かされる「ロシアもアメリカも、どっちもどっち」論よりも偏った放言である。これを刊行する編集者の見識が疑われる。