9月21日、86歳の誕生日を迎えた。このたびの「認知症基本法」によればこの日は「認知症の日」らしい。苦笑するほかはない。まぁ同じ年の妻とともにMCI(軽度認知傷害)の門口には来ているのかなぁと思うこの頃だからだ。FBではほぼ70人ほどの方から誕生日メッセージを頂いた。そのうち15人ほどの友人の言葉には、総じて「老いの一徹」みたいな私の発言にもまだなにがしかの意味はあるのかもと感ることができて、元気づけられる。
それでも、この1年ほどの間に、私の社会との公的な関わりはすべて終わったと思う。著書の刊行、論文や書評の執筆、マスメディアのインタビューなどの、おそらく最後の機会は、不思議にこの1年に集中した。もう社会的な発言が求められる可能性はほぼないだろう。今後はエッセイ「労働研究回顧」などをFBやHPに気ままに綴るだけである。ただ、この10月はいささか緊張して迎える。月初に懸案の妻の不整脈・心臓弁膜症の治療方針(検査入院、施術など)が決まるばかりか、中旬には社会政策学会書評分科会で最後の著書『イギリス炭鉱ストライキの群像』(旬報社)が取りあげられるのにかこつけて妻とささやかな観光を楽しむため、大分旅行を「敢行」する予定だからである。
そのために、当面は、ふたりの体力を維持するため、相互ケアのパンクチュアルな日々を送る。30分~1時間ほどの早朝ウォーキング、時間を限定した庭の草取り、食欲の出るような食事の用意、週にいちどほどの外出・・・といった、まことに地味な生活である。TVで見るのは1時間以内のドキュメントが多いけれど、かなり貯蔵しているDVDで2.5時間~4時間近い名画の大作を見るのは私たちの大きな楽しみだ。そういえば、21日、「誕生日記念」として深夜まで見たのは、愛着このうえない『ドクトル・ジバゴ』だった。その起伏に満ちた物語の魅力、その語りの完全な説得性、ラーラ(ジュリー・クリスティ)の優しさと心意気、美しい風景と音楽。なんというすばらしい作品か。今回あらためて注目したのは、D・リーン監督の細部の心配りとともに、ロバート・ボルトのシナリオの卓越であったが、思えば私は半世紀も、こんな映画に人間と社会の光を教えられて生きてきたのだ。ともあれ、雨戸をあけ雨戸を閉める間に、日記に何か特記できることをひとつはやりたいと思う。
最近のスナップ写真をいくつか。①9.15脱原発四日市行動でリレートークする私/② 名古屋の地下鉄で知り合ったネパール人家族/③大好きな喫茶店、名古屋芸文センターならびの倉式珈琲でのランチ/④矢場町のセンチュリー劇場で時間待ち/⑤書斎の日常。2011年ミャンマー旅行で買ったTシャツをまだ着ている。