その13 日本の労働者像をもとめて(4) 戦後民主主義と労働者思想の転轍

 戦争にまきこまれ、圧倒的多数の国民は、あまりにも悲劇的に、幼少時から教え込まれた天皇制のタテマエに殉じて、かけがえのないほとんどのものを失った。けれども、「民主主義が与えられて」労働組合活動が公認されたとき、労働運動は、「燎原の火」のように燃え広がった。では、その労働運動に日本の労働者はどのような思いを込めたのか? 彼ら、彼女らの戦前から内面化されていた天皇制に対する思想と心情はどのように変わったのか? 日本の労働者像の解明にとって、それは不可欠な検討課題であるが、私の懸命の考察は次のような道行きを辿る。
 一般的にいって、権力体制に文化的な資源、概念、言葉を奪われてきた人びとが、体制が瓦解したとき、それまでの権力の統合理念を、異端の宗教をもって正面から撃つ思想を掲げることは稀である。人民の新しい思想はむしろ、それまでの体制が国民統合に用いてきた論理の欺瞞性、すなわち理念と実態の矛盾を追及するかたちをとるように思われる。
 まして日本の場合、異端のキリスト教に殉じた唯一の大一揆、島原の乱のような叛乱も、ひとり戦前から天皇制の廃棄を掲げてきたコミュニスト主導の革命も、持続的な大衆運動としては考えられなかった。それゆえ、労働運動をふくむ戦後革新思想の現実的なルートは、天皇制のタテマエの平等と、権力者のホンネである徹底して差別的な階序の不平等との懸隔を是正または粉砕することに赴いたのだ。天皇制が四民平等・能力による人材登用、組織のすべての成員の公平な処遇などを唱えるなら、その理念を本当に実現してみよというのである。
 戦後の革新勢力や労働運動がまず要求したのは、それゆえ、まずもって<国民としての平等>であった。戦前では、実態として「職工」は蔑まれ、貧しい生活を強いられ、生活改善に声をあげることは許されなかった。これは「天皇制の理念の裏切りではないのか。労働者も国民としてふつうの生活を!」。それとともに、国民である以上、社会的なミニマムの生活が保障されなければならない・・・。それは当時の世界的な動向である福祉国家論に沿う発想でもあり、天皇制の平等のタテマエを掲げてきた日本の支配層も、「社会主義にまで行かなければ」否定できない考え方であった。皮肉な表現ではない、戦後の労働運動は、「人間宣言」で逃れた昭和天皇をもはや神と信じはしなかったが、天皇制のもと理念上でのみ「平等」だった「臣民」を、実態として「一億総中流」に変えようとしたのだ。政財界も、およそ1980年代後半以降までは、福祉国家や、格差を公認する「階層別ライフスタイル」の否定を公然と唱えることを控えるほかなかった。「貧乏人は麦を食え」は禁句だったのである。

 <国民としての平等>論は、企業社会を基盤とする戦後企業別組合の<従業員としての平等>論により具体的に現れている。その後の推移もふくめ、少し具体的に紹介しよう。
 その1は、高学歴のホワイトカラー「 職員」とブルーカラー「工員」の差別撤廃である。年功制といっても、それまでは両者の間に、賃金の額と形態、労働時間管理、企業内福利施設の利用などに大きな格差と差別があった。これはおかしい。「従業員としてのステイタスを同等にせよ!」 この要求はほぼ実現し、呼称も、さまざまの変遷を経てとはいえ、70年代には「社員」に統合されてゆく。
 その2。戦前の年功制では、年功賃金といっても、社内には雇用身分、学歴、職群、性などによるさまざまの昇給線があり、上司の恣意的な査定による個人格差もあからさまであった。だが、「同じ従業員であるなら同じように生活できる賃金が年齢段階別に保障されなければならない。年功賃金は基本的に同一の、譲歩しても職群別同一の、自動昇給であるべきだ・・・」。年功賃金の戦後労働者的解釈というべきか。生活の維持を重視すれば、賃金は年齢によって上がるのが正当なのだという主張である。
 この年齢別賃金論は、「職工差別撤廃」とは違って、戦後初期の左派労働組合によって一定達成されたとはとはいえ、すぐに昇給線の分断や査定昇給を手放さない経営側の執拗な反撃を受け、紆余曲折を経て、60年代半ば、能力主義管理の一環としての職能別賃金制に収斂し、これが日本の代表的な賃金体系になる。その後、かねてから労働論壇の一角にあった同一労働同一賃金論が、性差別・非正規差別反対運動の台頭とともに「同一価値労働同一賃金論」に発展していっそうの説得性を高めているとはいえ、それはいまだ大企業正社員の職能給とか役割給の堡塁を揺るがせてはいないかにみえる。
 その3。年功制の枢要の輪である終身雇用というタテマエの最大の裏切りは整理解雇である。「この裏切りを許すな!」 戦前の大争議もそうだったが、戦後労働運動史を彩る、国鉄、海員、日立製作所、宇部興産、三井鉱山、日鋼室蘭、三井三池など、いくつかの大ストライキの主要なテーマは解雇絶対反対にほかならなかった。
 これら長期の闘いは、しばしば企業協調的な第二組合の生成をまねき、総じて労働組合側の敗北に終わる。けれども、「大争議は高くつく」ことを学習した企業は、その後、経済成長を迎えたときには、むきだしの整理解雇は控えて、企業経済に必要な労働力の弾力性の確保を、非正規労働者の活用、正社員の残業調整、配転・出向、退職金優遇の希望退職募集などによって賄う労務管理に転じてゆく。そうしたソフトタイプの人減らしは、企業別組合の整理解雇反対闘争の必要性をたしかに低めたが、同時に、その可能性も、労働者が能力主義管理による従業員の選別に順応してゆくにつれなくなった。こうして時が過ぎ、2000年代にふたたびリストラの季節が到来したとき、企業は人員整理を、ほとんど争議なく従業員の「個人処遇」として対処できたのである。

 最後に、以上の<従業員としての平等>の思想と戦略が、女性労働者を包括するものであったかどうかが問われなければならい。
 戦前とは異なり、憲法にも男女平等の理念が謳われた戦後民主主義のもとでは、組合の生活給・自動昇給、解雇反対の要求にも、公式には女性を直接に差別する要素はなく、女性もまた労働運動の新鮮な担い手であった。近江絹糸での労働組合の勝利は、戦前の総じてうつむいた自己表現をためらう「女工」を、人権擁護や女性の独自要求に昂然と頭(こうべ)を挙げるOLに変えたと言えよう。
 とはいえ、女性労働者の多数は、なお引き続き、「寿退社」の短勤続・キャリア展開のない単純労働・いくつかの重層的な要因による低賃金という「三位一体」の働き方のままであった。そして、性別役割分業を基礎にもつこのような間接差別に、「家族責任」をもつ男性労働者も内心では総じて肯定的であり、彼らを中心とする労働組合がこのシステムに挑戦する営みは乏しかったということができる。その見直しが始まるには、フェミニズムが社会的な説得性を高めるとともに、女性の職場進出が本格化し、ひいては年功制の安定性が揺らいで、働く女性が「家計補助」者から「家計の主要なまたは不可欠の支持者」になってゆく1990年代を待たねばならなかった。80年代前半の私もなおジェンダー・ブラインドであった。女性労働者も非正規労働者も40%に及ぶ今、彼女らを包括することがなければ、<労働者像>論の説得性の範囲はきわめて限られたものになるように思う。

 <日本の労働者像>を求めてきた私の思索は、不十分ながらここでひと一区切りとする。
 思えば日本の労働者が身に宿した思想と心情は、日本という国の近代史が彼ら、彼女らに課した過酷な体験の反映そのものであり、それだけに外在的な批評を拒むほど内在的で必然的であった。戦後民主主義の世になって、それは<国民としての平等>、<従業員としての平等>、すなわち平等へのつよい願いとして展開する。
 日本の労働者は長らく、他の先進国とくらべても、実直な仕事に前向きの働き手だった。しかし、この真摯な人びとの思想や心情は、欧米の労働者、とくに組織労働者と著しく対照的である。国家社会の枠組みに軌道を強制されたとはいえ、彼ら、彼女らは主体的な選択としても、労働者間競争の受容、階層上昇への不断の願い、「労働者階級」からの脱出志向、「庶民的開き直り」の忌避、そしてそれらと不可分の「現在の立場のままで生活向上と発言権を獲得する」思想、産業民主主義への信頼の稀薄さにおいて際立った人間像を刻んでいる。
 私の描くこのような労働者像が、戦後史の各段階を通し世代を超えて継承されたということはもちろんできないだろう。経済環境、雇用形態、ジェンダー意識の変化を考慮したより精密な労働者意識の戦後史が必要である。しかし、とりあえずこうは言えるのではないか。
 新自由主義が席巻した1990年代以降、世代的には「団塊ジュニア」以降、伝統の労働者像そのものに大きな分断が生まれたと思われる。2000年代はじめの氷河期の就職戦線に成功して大企業、中堅企業の正社員になった相対的に少数の人びとは、総じて上述の日本に特徴的な思想・心情の多くを保持した。だが、男女を問わず、就職においてが失敗して、労働条件の劣悪な企業や非正規雇用で働くようになった多くの人びとはもう、階層上昇の熱意や階級脱出志向はもたず、どちらかといえば消極的な仕事観で、不安定な下積みの労働を日々引き受けている。といっても「勝ち組」が信奉する競争関係は厳存し、時代の「自己責任論」の常識化によって「この不成功は自分の責任」とみなされるゆえ、「庶民的開き直り」もできないのである。
 けれども、確実なことは、皮肉にも組織労働者であることの多い安定雇用「成功者」にも、未組織の下積み労働者にも、産業民主主義の思想、労働組合運動によって生活と権利を守る思想の稀薄さが、世代を超え、男女を問わず、継承されていることにほかならない。それは日本の労働者の精神史を貫く負のレジェンドということができる。
 格差社会化が深化する新自由主義の支配する、2020年代半ば、抵抗の発言権の弱々しい労働者の世界をみるとき、伝統の日本の労働者像の思想と心情の内在的な由来を理解できるだけに、私はこの労働者像の造型が喪ったものをやみがたく哀惜し、喪ったものの復権をひたすら願うのみである。