その16 非正規労働者――被差別の状況を超えて(2024年12月6日)

 パートタイマー、アルバイト、契約社員、派遣労働者などの非正規労働者は、2023年には雇用者の37%、男性でも22%、女性では54%にもなる。正規雇用者に対する非正規雇用者の賃金格差は、時給で2021円vs.1337円の66%、年収で531万円vs.306万円の58%(22年厚労省)という。だが、この場合の非正規従業員は多少とも常用的な人びとであろう。年収が200万円に届かない不安定雇用の非正規労働者が数多く存在することは、年収200万円以下のワーキングプアが労働者の22.9%になる(国税庁調査2023年)ことからも明かなのだ。不安定雇用・低賃金の非正規労働者こそは、累積する貧困層の中心的な地層であることは自明である。
 ちなみに相対的貧困率(所得の中位の半分以下の人の比率)は21年には15.4%で、Gセヴンのなかの最高位である。日本は今や堂々たる貧困大国であるといえよう。

 2018年5月、自民党安倍内閣(当時)は、①残業の法的制限を主内容とする長時間労働の是正とともに、②「同一労働同一賃金」(以下EPEW)の導入による非正規労働者の処遇改善を図る「働き方改革」を唱えた。そのゆくえは、①長時間労働の是正も高度プロフェショナル制度の導入にみるようにかなり欺瞞的であったが、②はいっそう空疎だった。以下、横田伸子/脇田滋/和田肇編著『「働き方改革」の達成と限界――日本と韓国の軌跡をみつめて』(関西大学出版会、2021年)寄稿の最近の論文「安倍内閣「働き方改革」の虚実」をベースに議論を進めよう。
 安倍晋三は当初「日本から正規・非正規という言葉をなくしたい」と揚言した。なんという舞い上がりようか。そんなことが政府にできるなら苦労しないと、私は苦笑を禁じえなかった。安倍はこの差別的な雇用形態が、日本企業の労務管理の重要な堡塁であることがわからないほど鈍感だった。企業側はしかるべく安倍のEPEW論を一蹴したのである。
 企業は、正社員Aと非正社員Bが日常的に遂行している仕事が同じであっても、両者を同等に評価し同一賃金を支給することは決してない。Aの職務にはしばしば財務上または人事管理上の「責任」が付加されているからだけではない。Aの仕事は明日のキャリア展開のための経過的な課業とみなされるが、Bのそれは総じて「袋小路」の担務なのだ。Aがはじめからフレキシブルに働きキャリアを歩む従業員として「期待」されて採用されているのに対して、Bはそのように「期待」されることなく、必要に応じた定型的または補助的な働き手handsとして拾われているのである。両者に同じ賃金決定ルールを適用することは企業にとって不合理なのだ。こうした雇用形態・採用方針・人材活用の従業員間の差別は、分業配置上および経営コスト上、大きな企業利益をもたらす。ここには企業利益と能力主義的選別の間にあるwin-winの関係はない。雇用形態差別の経済性は、がんばれる女性を旧来の性差別意識ゆえに活用しないことの非経済性と対照的でさえある。
 この財界の堡塁を前にして、安倍晋三はいつしか、EPEWとか非正規雇用の撤廃とかを謳わなくなる。のちの法制が、非正規労働者の処遇改善において、賃金、賞与、その決定方式を統合する改革は姿を消し、休暇・休日取得、福利厚生などにおける可視的な差別の是正のみを規定するに堕したのも当然であろう。そして正社員を組織する企業別組合がこうした道行きに異を唱えることもなかった。
 
 近年の講演などで私がよく用いた分析軸は、ときに過労死・過労自殺にいたるまでの正社員の心身の疲弊と年収200万にも満たない非正規労働者の貧困との相互連環・相互補強関係であった。非正規の貧困体験を経た人は、ようやく正規雇用として採用されると、課せられる過重労働を拒むことなく引き受ける。だが彼ら、彼女らはしばしば過重労働ゆえの心身に不調を来たし、退職してまた非正規労働市場に入ってゆく。被差別雇用をくりかえすうちに求職の気力も失うかもしれない・・・。正規雇用と非正規雇用は地続きなのだ。いずれにせよ、はじめから正社員就職できなかった人をふくめて 非正規労働者男女の部厚い層が堆積しつつある現状である。
 このことから次のように言える。第1に、非正規労働者と正社員それぞれのしんどさは表裏一体のものである。状況批判は両者を同時に視野に入れる必要がある。第2に、非正規労働者の問題は、どちらかといえば女性においてより深刻であることは確かながら、それはすでにノンエリート男女に共通する問題にほかならないことだ。
 では、ノンエリ-ト男女に共通するこの受難に対して、どのような改善の方途が考えられるだろうか。当の非正規労働者の選択に応じて方途はふたつである。
 
 特定の企業や職場への定着を望む常用型の非正規労働者は、やはり正社員化をめざし、正社員としての処遇の平等化を、なによりも賃金体系・賃金決定方式の正社員との統合を求めるべきであろう。従来の非正社員も一般職正社員の昇給線を辿る。職務の違いはあっても、彼ら、彼女らはすでに多くの産業で「その作業なくしては業務遂行ができない」という意味での基幹労働である。正社員としての拘束性や上昇の「天井」はあるにせよ、昇給・昇格・キャリア展開が閉ざされているのは、まことに不平等にほかならない。
 けれども、どの企業、どの職場でも働ける非正規労働者は、専門技能の有無を問わず、非正規雇用のままでいい、しかし物乞いのような求職と食えない賃金は絶対に拒む、それゆえ、非正規雇用も働き続け生活できるまでの「自立」を求める途を追求する、そんなありようを追求したい。そのために必要なことは、企業外でみずからが打ち立てた一定の働くルールや賃金、職種別レートや最低賃金を、そのとき働く企業に持ち込ませるのである。
 空理空論ということはできまい。現在でも、労働条件の水準をさておけば、地方労働市場の実情に応じて多くの企業や公共部門でそのような処遇がなされている。残されている課題は、「企業外でみずからが打ち立てた一定のルールや賃金」を、その慣行に加えることである。それができるためには、欧米の一角にみられるように、彼ら、彼女らが産業別または職種別労働組合に加入し、またはそうした企業外組合の連帯を構築し、個別企業また業界を相手とする団体交渉や要求行動を実践できる思想をわがものとしなければならない。その萌芽は、図書館司書・非常勤教員など公共部門専門職の連帯行動、コミュニティユニオンの協同による非正規春闘の展開、ファストフード店員・アマゾンスタッフ・自動販売機係員など労働条件改善行動、大都市での最低賃金即時1500円獲得などの共闘に現れている。それらは可能性としてまことに広大なフロンティアをもつ。ここに希望がある。
 ふたつの途に共通する非正規労働者の状況改善のため日本に不可欠の労働運動上、政治・行政上の戦略ポイントは、前回「女性労働」で述べたところといくつか重なって、すでに十分に意識化されている。
 まずもって、企業のいう労務管理視点の「同じ労働」論議にとらわれない「同一価値労働同一賃金」論。職務評価によってそれぞれの賃金額の「正当な格差」を設定するこの手法を用いれば、しばしば男性の半分ほどの女性の賃金は8割ほどには高まるという。例えば、この理論に立脚して商社について克明に職務を分析した森ます美、木下武男、居城舜子、高嶋道枝らの報告書(ペイ・エクイティ研究会『商社における職務の分析とペイ・エクイティ』1997年)によれば、男性と女性の正当な(その水準に是正されるべき)賃金格差は、100vs.89であった。この格差是正論はむろん、雇用形態間の賃金格差の是正にも適用されるべきなのである。
 また、日本ではなお不在の、非正規雇用が許容される条件を規定する「入り口規制」の法制化が絶対に必要だ。ドイツや韓国では厳しい許容条件があるのに、日本では非正規労働者の「活用」は企業の思いのままである。さらに、今日、枢要のエッセンシャル・ワークであるのに、経営状態が零細で、雇用や契約の枠組みが多様で、処遇があまりにも劣悪なケアワーカーのありように鍬入れがなければならない。この不可視の草の根の働き手の公務員化を視野に入れた労働条件と生活水準の公的保障が喫緊の課題といえよう。
 いずれにしても、正規・非正規の差別の「堡塁」は、社会運動の性格を帯びた労働運動によって撃破されなければならない。堡塁のなかの城兵がさしあたり撃破に加担することはない。とはいえ、彼ら、彼女らのノンエリート化した層は、拘束感とともに将来不安も抱えており、より社会的な保障を求めてもいる。堡塁が揺らげばひそかな謀反が期待できるかもしれない。

 私なりの労働研究キーワードを手がかりに、とりとめなく精粗さまざまに綴ってきた<労働研究回顧>は、これでいちおう幕を閉じることにする。多少とも私に独自的なコンセプトは、主として60年代~90年代までの案出であり、2000年代はじめの上記<正社員の心身の疲弊と非正規労働者の差別と貧困の相互>をもって、ほぼつきたからである。
 2010年前後、私はいずれも岩波書店から、それまでの研究を集約・総括するような著書をいくつか刊行している。多様な格差を内包した労働状況を全体的に分析した『格差社会ニッポンで働くということ』(2007年)、長年の労働組合研究のすべてを網羅した『労働組合運動とはなにか』(2013年)、そして企業社会における労働者の極北の受難、過労死・過労自殺を凝視して、個人体験のレベルにまで降りて克明に辿った『働きすぎに斃れて』(2010年、2018年「岩波現代文庫」に収録)である。けれども、それらは、産業民主主義の復権へのあくなき執着、<強制された自発性>を軸とする労働者の主体性の重視、労働者個人と階層全体との往還的考察など、研究史の初期・中期に培った思想や分析視角を、手放さず彫啄して貫いた作品にほかならない。方法論としての新しさはない。研究者は「処女作に向かって成熟する」という。「成熟」した自信はなく、もっと考究したい多くのテーマを抱えたままながら、以上をもって連載を閉幕とする次第である。
 なお、本格的な労働研究から撤退した後、私はさらに2023年まで、市場性は乏しいけれど、長年の読者からは「いかにも私らしい」と愛好されもした3冊の本を出版している。これらについては、しかし書くとすれば、<労働研究回顧>の補論とすべきであろう。