<なぜ今、労働組合なのか>を語るなら・・・ (2025年2月2日)

 労働組合運動の実践者であれ研究者であれジャーナリストであれ、<なぜ今、労働組合なのか>を問うならば、この課題はおよそ次のように解いてほしいと思う
 まずは、日本の労働組合の現実の営みをみつめ、先進国の水準に照らしてその実態を忌憚なく批判することからはじめるべきであろう。そのためには、連合や傘下単産(これは産業別組合ではない!)の幹部スタッフたちの「検討中の構想」にもまして、財政的にも決定権においても枢要の存在である単組、企業別組合の現実のビヘイビアが問われなければならない。
 着眼点としてはなによりも、労働者が日々不安やしんどさを痛感している職場の諸問題――主として正社員のパワハラや過重ノルマ、全人格的な査定の強いる競争と選別、ひいては過労死・過労自殺、主として非正規労働者では広範囲の処遇の被差別が掬われねばならない。個人レベルの受難とされているこれら日常の諸問題こそが、企業の労務管理との対決を避けて、いま企業別組合が守備範囲外として傍観している事柄なのだ。それこそが一般の労働者が労働組合というものにもう期待しなくなっている最大の理由である。
 カスハラ対策や「生産性の高い部門」への労働移動の斡旋や保障、中小企業の人件費アップの価格転嫁の公的支援、労働協約の拡張適用など、労働運動のフロンティア拡大を国の施策とともに計る上部組織のボスたちの構想は、それ自体むろん望ましい。だが、企業別組合が、例えば所属企業に下請単価のコスト転嫁を認めさせる、非正社員に正社員と同じ賃金システムや同一価値労働同一賃金を適用させるなど、労使対決が不可避になる実践を迫られない限り、単組は批判の外にあり、そこでのボスたちは労使協力に安んじることができる。自治労福岡の非正規水道検針員への労働協約の拡張適用といったすばらしい実例はないわけではないけれども、「単組はなにをしているか」の検証を避けたフロンティア構想の言説はどうしても実践例の紹介を欠き、実例は総じて欧米の出来事になる。
 どのような論者であれ、日本の労働組合論の取材対象は連合、連合系単産、またはその流れに親和的な研究者に限られてはならない。視線が偏ると、「分析」の彫りは浅くなる。取材対象は、全労連、全労協、連合系ハートフルユニオン以外のコミュニティユニオン、労働弁護士や今の労使関係に批判的な論者にも及ばねばならない。いわゆる「左翼」の排除は偏狭だ。なぜなら、職場の日常の受難、非正規労働者の差別撤廃、中小企業の労働条件向上などのために体を張ってきたのは、すぐれてそうした担い手だったからである。
 取材対象としての「左派」の包括は、労働組合の大衆的な行動形態、例えばストライキの可能性にもっと関心を払うことに通じる。例えばほどほどの賃上げが是認される今の春闘論議でも、労働組合のボスたちもマスコミの報道も、ストライキの可能性を口走る者は誰もいない。周知のように日本でのストライキの異様な僅少さは先進国では異例ではないだろうか。欧米の組合運動に学ぶべきは、組合員以外の市民・住民との連携ばかりでなく、最近における組合のしかるべき産業内行動(ストライキ、ピケ、ボイコット、街頭行動)の著しい復権である。日本ではすでになぜそれが想定外になっているかを、国民思想の課題として立ち入って考えねばならない。
以上のコメントは、ジャーナリスト・藤崎麻里の『なぜ今、労働組合なのか――働く場所を整えるために必要なこと』(朝日新書、2025年)という近著への全面的な批判にほかならない。さよう、藤崎著書は、上記で「・・・ねばならない」「・・・べきである」というところにことごとく背反する。労働組合の意義がまったく見失われている日本に、藤崎は労働組合って捨てたもんじゃない、こんなこともできるよと語っている。組合運動に希望をつなごうとしている意欲と善意には深く共感する。できれば温かい感想を寄せたかったと思う。しかし、目前の労働組合の現実にあまりに無批判で、パワハラもノルマにも、非正規労働者のなかに増えつつある貧困層の生活実態にも言及されない藤崎本の内容は、連合や単産の幹部たちには迎えられるかもしれないけれども、普通のサラリーマンやOL、ブラック企業との闘いに苦闘する「非正規春闘」のコミュニティユニオンの担い手たちにとってはまことに期待外れというほかはない。錯誤の善意というべきだろうか。