7月6日早朝、まことに思いがけないできごとがあった。
早朝の散歩のとき、私は町屋川辺の石段からバランスを崩し転落、しばらく意識を失って、一緒にいた妻・滋子に付き添われ、桑名のQ病院のERセンターに搬送され、そのまま入院となる。外傷性くも膜下出血、脳震蕩、頭部と鼻骨などの外傷である。はじめは顔中に絆創膏でふためと見られぬ外貌。しかしすぐに意識ははっきりし、その後は重い頭痛、めまい、しびれなどに襲われることはなかった。たしかに最初の3日ほどは交互に読書と睡眠のくりかえす静養であったが、やがて私の感覚ではすべてが元通だと感じれれるようなると、つよく退院を望むようになる。だが、脳内出血は軽度でも2週間ほどの毎日の点滴(抗生物質と水分)と脳のレントゲンやCT検査による経過観察が不可欠だと言う主治医に叱られて、結局、12日間の不自由と鬱屈の入院を余儀なくされたのである。
私の病室は4日目には希望によって4人部屋に移ったが、あたかも野戦病院のようで、若い担当看護師やスタッフは毎日交替する。カーテンに囲まれて隔離性はよく、ベッドは上下可動制で備品も豊富だ。落ち着けるけれど、同室の患者はたとえば誤嚥性肺炎のような重症のようで、機材に囲まれて身動きできない姿を垣間見たり、呻きや泣き声の訴えを洩れ聞いたりした。主治医は毎朝、立ち寄って、一言残し、検査結果などを説明することなく、質問する暇もなく風のように立ち去るのが不満だった。
私がひたすら早期退院を望んだのは、7月12日ごろから主観的には「元通り」になって、1日にあわせて5パックほどの長時間の点滴が拘束的だったこともある。しかしなによりも、しんどいにはおそるべき粗食だった。あまり長期入院の経験がなかったので他の病院の例は知らないけれど、ここでは、鯖など魚の食材は稀、肉類は細片が混ぜられた「調理」という次第できわめて貧弱、調理も味などあってなきがごとく薄い。食事というよりは食餌だ。朝8時、正午、夜6時の食事は、お見舞いの滋子の持参する梅干し、ふりかけ、明太子、ソーセージ、みかんなどの助けを借りる「完食」への闘いであった。実につらかった。この日々を救うものは、次第に長時間読めるようになった、選びぬいて持ってきてもらった小説だった。吉田修一『国宝』(下)、千早茜『しろがねの栞』、ケイト・クイン『戦場のアリス』。それぞれが本当におもしろく、すべてが読了に到っている。
それまでの退院はかなわなかったが、私は7月14日に、妻の滋子の市立四日市病院での心臓外科の診察にぜひ同行したかった。妻は猛暑のなかほとんど毎日お見舞いに来てくれたが、本当のところ、大動脈弁狭窄症で大切な局面を迎えている滋子のほうが状況は深刻で、この日、7月4日(彼女の87歳の冴えない誕生日!)に受けたエコー検査、心臓・大動脈CT検査の結果にもとづいて、TAVI(カテーテル手術)の可否と日程が決まる予定だったのだ。東京の長男も、早々に病床に来てくれた福島の次男もその日は来られないとあって、私は信頼できる旧友のSにキーパーソンのように同行を依頼しところ、快諾を得た。病院の了承もとった。その日、夕刻、滋子とSは桑名の入院先まで報告に来てくれ、四日市病院のU医師が、TAVIは可能、8月25に入院、同じく27日にTAVIを決定したと聞いた。決心がついてなぜか安堵した。8.25から10日ほど、<2025年夏、二人の余生のための闘い、第2戦線>に入ろうと決心する。
当面の<第1戦線>、私の入院では、その後、読書とともに、滋子名義のスマホで親友たちとSNSを交わしたり、電話で回復状況を話したりした。多くの友人たちから励ましを受け、滋子への温かい配慮を聴くことができた。参院選の状況もいくらかは触れることができた。思えば日本人ファーストの排外主義的右派が堂々と跋扈する日本に今や成り下がったものだ。
そして、二度のレントゲンとCT検査の結果、やっと17日の退院が決まった。この静養期間だけでふとももが細くなった。努めて院内を日に3600歩ほどぐるぐる歩く。 ここの交代制の看護師などは総じて若い。ときに話し込んだりする青年もいるとはいえ、私のようなすでに軽症の者のありようにはまったく無関心である。
7月17日、滋子とともに、雨のなかタクシーで帰宅する。たばこも珈琲もバターもTVも映画もなく、なによりもいやな食事もない日はさしあたり終わった。驚いたのは、救急入院のためか、診療内容と請求書は後日、成行き観察の24日再審の日出されるとのことで今日の支払いはなしだった。設備はともかく、あの食餌でいくら請求されるのだろうか不安である。ともあれ、次なる第2戦線のためにも軍資金を用意しなければならない。
写真はすべて冴えないが、記憶のために。入院直前のノウゼンカツラ/7.4のひつまぶし/入院初期の面相/お見舞いの滋子/憂鬱な食事/快復期/退院前の読書の時。






