厳寒1月の2週間ほどかけて、ジョン・ダワー<三浦洋一/高杉忠明訳>『増補版 敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人』(岩波書店、2004年)を読み終わった。最近これほどに引き込まれて耽読した戦後史はない。
本書は、戦後1945年から52年に生起した未曾有の重大な出来事すべての詳細を縦糸とし、軍事国家の解体と民主化を一方的な命令によって推進したアメリカ占領軍、免責されて生き延びた天皇をはじめとする日本の戦前・戦中以来のエリート権力者、これまでの言動への自責と芽生えた希望の狭間で苦悩する文化人、茫然自失を経てマッカーサーに従属し、それでも、飢餓に苦しみながらさまざまの新しい営みをアナーキーに始めた無名の民衆――そうした全階層・両性の多くの人びとの懸命の対応を横軸として、戦後日本の混沌の実相を活写する、大きな絵図が刺繍されたような織物をみごとに縫いあげている。まことに視野の広い資料の渉猟、数えきれなほどの興味深いエピソードの犇めき、有名・無名の人物たちについて功罪と明暗の両面を凝視するバランスのとれた分析、そして折にふれてダワー自身の彼らへの愛着と嫌悪がふと現れもする雄勁で文学的な筆致。(上)(下)併せて830頁ほどの大著ながら憑かれたように読み続けさせる。政治史・社会史・生活誌、文化史という性格を併せもつ史書ということもできる。なお「増補版」で加えられた随所での多くの写真が、この壮大な物語にいっそう生々しい可視性を添えている。
細かくみれば時勢に即した微妙な変化はあれ、主要な三主体の言動の底流にある基本的な性格を、ダワーは次のように的確に把握している。帝王マッカーサー以下のアメリカ占領軍は、平和と民主主義を上から日本の地に移植しながらも、その統治上の判断で否定できない天皇ヒロヒトの戦争責任をあえて免責することを通じて、日本人にみずからの戦争責任を、なかんずく中国および東南アジアへの加害責任を忘れさせることに手を貸した。また日本の支配と統制には終始、勝者の傲慢による「白人優位」(いわば有色人種差別)のスタンスがつきまとった。典型的には、検閲制度ではいっさいのアメリカ軍批判などを嗤うべき細部の厳密さで禁止し、東京裁判では、軍部上層の罪状から天皇は無関係とこじつけ、未曾有の戦争犯罪たるアメリカの原爆投下にはいっさいふれなかった。それに冷戦と朝鮮戦争の勃発後、占領軍は、みずからが与えた平和と民主主義も投げ捨て、過酷な弾圧の対象を一挙に、超国家主義から左翼・共産主義、闘う労働運動へと転換している。
では、終生ただの一度もみずからの戦争責任を語ったことのない無自覚な昭和天皇と、高級官僚ら日本の権力エリートはどうか。彼らは結局,本質的にはなにも変わらなかった。この輩は軍部がまだ独走していなかった段階の明治憲法体制をなお望ましい「国体」とみなし、「軍政」ではない「間接統治」を奇貨として、日本陸軍の圧力は排除された政治の界隈で狡猾に従来の権力を温存したのだ。冷戦到来後の占領政策の「逆コース」化をたとえば吉田茂らが歓迎したことはいうまでもない。
それでも、日本の民衆は、戦前にはまったく奪われていた自由を享受し、なお戸惑いながらも、「与えられた」新憲法に込められた非戦・絶対平和主義と民主主主義をゆっくりと「抱きしめ」てゆく。ここにこそ、アメリカと日本の権力者を忌憚なく批判し、なによりも無名の人びとの哀歓のありかを掬おうとしたダワーの期待があった。この新憲法擁護の民衆意識はそして、おそらく80年代にいたるまでは、革新政党や市民運動の良識として生き続けた。穏健保守さえ総じてその陣営に属した。けれども世界の反戦平和と民主主義が思いがけず存亡の淵に立たされた2026年の今、豊かな時代を体験した日本の「国民」多数はなお、この憲法理念を、倫理的衝迫として、「抱きしめて」いるだろうか? 共感と感銘のうちに本書を閉じたとき、そんな不安にとらわれる。