社会科学の三冊(2023年5月1日)

 最近では私の読書も新書や小説が多く、率直にいって社会科学や歴史の専門書を精読することはあまりない。それでもこの2月から4月にかけては、私にとって次の三冊ほどが、情報において貴重、社会や歴史の認識について示唆的だった。本当は読後にすぐ、くわしい内容検討をふくむ批評めいたものを記すべきかもしれないけれど、退役の研究者でたんに読書人の気軽さで、以下、思い出すままに簡単な紹介を試み、いくらかの感想を記したい。。
 
(1)マイケル・リンド<寺下滝郎ほか訳>
『新しい階級闘争――大都市エリートから民主主義を守る』東洋経済新報社、2022年

 この書は、荒削りながら、現在のアメリカや西欧諸国に顕在化している階級闘争を規定している基本的な対立軸というものを明示している。それは、かつてのような<資本家対労働者>ではなく、<大都市で働く高学歴の管理者・経営者や専門技術者からなるテクノクラート新自由主義者の上流階級(インサイダーのエリート>と、<土着の国民と移民からなる大多数の労働者階級(アウトサイダー)>の断絶と対立である。そしてアトム化して政治・経済・文化の諸領域において発言の場を失った下層の労働者階級は、カリスマ的なデマゴーグの扇動に靡く右派ポピュリズムの台頭に棹さしていると著者はいう。
 リンドのいう断絶と対立の基本軸の把握は十分に了解できる。トランプ大統領の登場以来のアメリカの世論に感じてきたわかりにくさが、この把握で解けた思いがする。リンドはまた、サンダース支持の高まり、1対99を拒むウォール街のオキュパイ運動、ブラック・マターズ、Me Tooなどの果敢な大デモなど、知的な若者たちをふくむ、従来の選挙中心の政治活動の枠にはまらない左派ラディカリズムの台頭も見つめている。
 リンドはしかし、反テクノクラートの双生児のような右派ポピュリズムと左派ラディカリズムをわかつ基準を語らず、これらはともに、あらゆる新自由主義的権力を行使しうるテクノクラート・インサイダーを無力化することはひっきょうできないとみているようだ。そこで真の民主主議のための拮抗力としてリンドが唱えるのは、新自由主義の進行が衰退させたところの、それまでは市民や労働者階級を守ってきた労働組合、宗教団体、地域政党、市民団体などの再確立、つまり「民主的多元主義」の再生である。一見すれば伝統的で穏健なこのオルタナティヴの提示を、それでも私はやはりつよく支持する。私なりの表現では、それは 産業民主主議の復権にほかならない。近年のアメリカやイギリスにおける大規模なストライキにみる労働運動の再活性化の息吹きは、労働組合のような典型的な多元的帰属集団がなお庶民の自治と抵抗のよすがになる可能性を示している。

(2)吉見義明『草の根のファッシズム――日本民衆の戦争体験』岩波現代文庫、2022年
原著は、日本帝国が侵略したアジア諸国での日本軍兵士の膨大な戦争体験記を読み込み、微妙な心の揺らぎをふくみもって陰影ふかい民衆の戦争意識を凝視した1987年の名著。日本人のすべてが記憶に刻むべき、それはまことに敬服すべき周到な考察である。
 ただ私がメインタイトルに期待したことは、実利の点からときに離反の志向を示したとはいえ総じて天皇制ファッシズムに帰依し、侵略戦争に加担した戦場および銃後の民衆の意識形成に、天皇制の「四民平等」という建前(いわゆる民衆向けの「顕教」)がどのような役割を果たしたのか、あるいはさして役割を果たさなかったのかの分析であった。例えばナチズムは「国家社会主義」として国民の平等処遇と生活向上を建前とした。では天皇制下の日本ファッシズムは、どこに民衆を内的に鼓舞できる独自性があったのだろうか。「平和日本」でも、天皇制はかたちを変えて民衆の敬愛の対象であり続けているだけに、そのあたりの深掘りが吉見の著書に対する、いわば「ないものねだり」なのである。

(3)三吉勉
『個別化する現代日本企業の雇用関係――進化する企業と労働組合の対応』 ミネルヴァ書房、2023年

 著者・三吉勉は、民間電機会社の技術者、企業内労組専従役員の経歴をもつ68年生まれの研究者である。三吉はまず、現代日本では、労働者の仕事態様や労働条件が、グローバルな動向とくらべても、際立って、個別企業ごとに、ひいては個人別に決定されている。つまり<労働>のありかたが徹底して個別化していると言う。その環境のもとで、では、もともと集団的・統一的な規制を旨としてきた労働組合は、どのような役割を果たしうるのかと著者は問う。そのうえで、三吉は、おそらく自分自身が所属したA社・A労働組合を実証研究の舞台として、労働を個別化させる生産・労務管理と、労働組合の対応をくわしく説明する。内容は多岐にわたるが、私なりに単純化して要点を紹介すると、例えば次のようである。
 ①「個人別の仕事を決定するルール」では、上からはPDCA(計画・実行・チェク・改善活動)における企業レベルから職場レベルへのブレークダウン、横からは目標面接におけるチャレンジ促進的な業務目標設定を通じて、個人の日々の業務割当てにまで及ぶ。
 ②実績評価の比率を極度に高めつつある賃金の増減には、目標面接で設定された個人業務目標の達成度の査定が大きく影響する。
 ③企業別組合は、上の基本的に経営主導的なPDCAを大きく変更させることはないが、経営の各級レベルにおかれた労使協議の場で発言し、部分的にはささやかな修正をさせることもある。
 仕事内容や労働条件の<個人処遇化>は、『能力主義と企業社会』(岩波新書、1997年)を刊行した頃から長年にわたる私の問題意識でもあった。それゆえ、三吉の視角とテーマ設定に私は満腔の賛意を表したい。この環境下で見失われがちな企業別組合の役割を探ること、それはいわば労働研究の未踏の分野だった。そう、私もそこが知りたかったのだ。これほどに問題意識とテーマに惹かれて繙いた労働研究書も少ない。それが一般にはなじみにくいこの書をあえて推す理由である。
 しかしながら、忌憚なく言って、読後、これほど失望した書物も少ない。過剰な概念操作や文章の生硬さはさておいても、いくつかの理由がある。なによりも、これは基本的に制度の説明であって、確かにうなずかせる生なましい実態の解明には達していない。著者はPDCAのブレークダウンの現場にも、労使交渉のテーブルにもいたはずである。そんな場での、具体的な製品や数値を示す実例を知りたかった。また、著者も従業員にチャレンジ精神を求める目標面接の体験をもつはずだ。演劇のト書きほどでなくとも、そこで上司との間でどんな会話がなされたかも知りたい。さらに、組合の発言によってルールの運用がどう変わったかの記述は、法令が厳しい労働時間については比較的具体的であれ、ほかは全編を通じて、わかったのは査定結果による賃金ランク降級の部分的是正と、ある職場での一人の要員増を数えるにすぎない。皮肉な言い方だが、記述の抽象性は、PDCAにも、まして目標面接には、組合規制がほとんど及んでいない証拠のように思われる。
 こうして、どうしても外在的な批判に導かれてゆく。思うに分析がこうなったのは、三吉をふくむ企業別組合の幹部たちが、A社のニーズを内面化し、その生産と労務の施策に労働者処遇の不当性をほとんど感じていないからであろう。過労死や過度の残業やハラスメントなどはここでは皆無であるかにみえる。三吉の組合機能観は、それゆえ、組合の承認した経営施策への、コミュニケーションを通じての労働者の「納得」の取り付けである。この「納得」獲得の努力は、基幹正社員の能力向上とキャリアー・アップの欲求にも応えるものとされている。今日、日本の企業社会に不可欠の、総じて未組織の非正規労働者が、この大団円の世界の外にあることはいうまでもない。PDCAの外部は、企業別組合とは無縁なのである。
 もしかすると、、三吉勉もこんなことはすべてわかっていて、内心では分析はなお具体性を欠き、企業別組合はその名に値する組合機能を果たていないと思っているのではないか。ふとそう思われもする。しかし美吉は、より具体的な個別事例を活字にすることをおそらくA社やA組合に禁じられ、あるいはみずからもその非公開性に納得して、折角のテーマをめぐる考察を、このような制度論に留めたのだのではないか。もっとも、企業の内部情報・個人情報の開示を不可欠とするこのテーマを私が期待するほどに具体的・数値的に分析することは、企業社会に「革命」でもない限りできないかもしれない。そう考えると、誰の探索によるものであっても、この枢要の問題領域の立ち入った研究はさしあたり難しいと予測されて、絶望的な思いにとらわれてしまう。

  なお、この春に読んだ社会・人文関係書では、以上のほか、川端康雄『ジョージ・オーウェル――「人間らしさへの賛歌」』(岩波新書)と小泉悠『ウクライナ戦争』(ちくま新書)が、プロの力量を見せつけておもしろかった。また、後半の理論篇が未完成の印象はまぬかれないが、前半で著者が過酷な障害者差別とそれに対する闘いの半生を率直に語る高見元博『重度精神障害を生きる――精神病とは何だったのか 僕のケースで考える』(批評社)を、真摯な良書として推したい。