その2 強制された自発性
(2023年4月25日)

 個人の受難を凝視することは、労働者個人を体制の論理に従わされるだけのまったき受動的な存在と把握することでは決してない。労働者は、抗いがたい資本制企業の要請を受諾するにしても、そのとき、例えば自分や家族の生活のためにはこの従属の選択もやむをえなかったのだ、それでよかったのだという、なんらかの主体性の自覚をわがものとする。人は支配や従属にうちのめされたままでは元気にやってゆくことはできないからだ。それに、そもそも制度的には奴隷でない「自由な」労働者の資本の要請の受容は、近代社会の建前としては自発的なのである。 
 だが、例えば、過労死するまでの過重労働、不安定な非正規雇用、仕事自体は「くそおもしろくない」底辺労働への就業などが、偽りなき自発的選択でないことはいうまでもない。それは資本の論理にもとづく労務管理や分業構造が特定の労働者に強制したありようである。「選択の自由」はしばしば空語であろう。その選択をあくまで「自己責任」とするのは体制側のイデオロギーにほかならない。にもかかわらず、労働者のマンタリ(心情)は、その強制に、あえて自分なりの自発的選択の要素をはりつける。それはある意味で悲しくも切実な労働者のアイデンティティの求めではあれ、そう考えるほかないのだ。私が、研究史中期に、日本の労働者のものの考え方という意味での文化を、「一定の職場状況が労働者に強いる生きざまへの、自発的な投企」(『職場史の修羅を生きて――再論 日本の労働者像)(筑摩書房、1986年)と「あとがき」に規定した所以である。それ以降、「強制された自発性」は、私の労働研究を代表するタームとなった。このマンタリテがどれほど日本に独自的であるかについては、確答に自信はないけれど、ひとつ忘れられない記憶はある、
 1989年、私は日本の労務管理が外国人労働者にどれほど通用するんのかをさぐる『日本的経営の明暗』)(筑摩書房)を刊行する。その研究の過程で、アメリカのマツダのフラット・ロック工場の労働者の状況を描くFucini夫妻のWoking for the Japaneseという興味ぶかい本を繙いたが、そのなかにこんなエピソードがある。
 マツダは従業員に着用が義務づけられているつなぎの作業服と、着用は自由なロゴ入りの野球帽を配布したところ、労働者は野球帽のほうはほとんど被らなかった。そこで日本人管理者がなぜ被らないのかと咎めると、労働者たちは、野球帽の着用は自由のはずだと答えた。管理者はそこで、あなた方にマツダを愛する気があるなら自然に被りたいと思うはずだと追及した。すると組合役員は、「会社が野球帽を被れと命令するなら、それは管理者の立場としていちおうありうるだろう、しかしわれわれに野球帽を自発的に被りたくなれと命令するな」と返したたという。その他の例、例えば命令と自発的遂行の区別が曖昧な清掃業務なども勘案して、アメリカの労働者は、結局、「日本人は強制と自発の区別がついてないのではないか」と断じたのである。たかが野球帽、されど野球帽というべきか。このヤンキーの姿勢に私は深く感じるところがあった。
 閑話休題。<強制された自発性>という把握は、研究史後期、『働きすぎに斃れて――過労死・過労自殺の語る労働史』(岩波書店、2010年)の刊行に向けて、死に到るまでの多くの労働者の日々の軌跡をきわめて具体的に辿ったとき、あらためてこの把握の有効性と不可欠性を自覚したものである。以上では大まかに述べたが、もちろん、問題によって(過労死の場合には事例によって)、また、経営のニーズの緊迫度を規定する局面によって、強制と自発の相対的な役割の大きさが異なるのは当然であろう。例えば2000年代以降にいっそう頻発するようになった過労自殺の多くの事例では、受難の若者たちの多くは強制か自発かを区別する自己認識のゆとりも失い、憑かれたように死に導かれてしまうという印象である。
 熊沢過労死論の<強制された自発性>は、この分野の先駆者たる川人博や森岡孝二からも高く評価された方法論だった。もっとも、かけがえのない人の死にもいくばくかの「自発性」を認めるこの把握は、過労死遺族の会の一角には、一定の反発もあったようである。しかし、愛する人はただただ強制的に死に追い込まれたのだと遺族が受け止めるのも、遺族の立場としてはよく理解することはできる。