その10 日本の労働者像を求めて(1)  日本プロレタリアの形成ル-トと研究の課題

 イギリス滞在後の1980年代から、私は、英米の労働史とそこから帰納できる限りの労働組合運動論の研究をいったん休止して、75年以降いつも関心を寄せていた<私たちの国の労働者はどのような人びとなのか>というテーマ、つまり<日本の労働者像>の模索に集中して、懸命の勉強を重ねた。
 日本の労働者階級の形成プロセスが、イギリスやアメリカと異なる特質を帯びていたことについては早くから定説があった。近代日本の「殖産興業」によって次々に造られた大小の工場は、むろん多くの工業労働力を需要したが、それに日本の労働者は、農業革命や囲い込みに追われた都市移住によって一挙に、あるいは都市ギルドの解体によってドラスティックに、プロレタリア化した人びとではなかった。むろんアメリカのようなヨーロッパ諸国からの貧困移民でもない。日本では、職人層の熟練工への転身はあれ、「出稼ぎ型」の繊維女工にしても、各種製造業の「半農半工」型の一般労働者にしても、総じて農村を完全には離れることのない稼ぎ人であった。耕地の狭隘な小作農家はいつも潜在的過剰人口のプールだった。そこで会社のプルと貧しい農家の「口べらし」プッシュの合力が、まず娘、二・三男を工場に引き出し、次いで長男や父親を近隣の工場に通勤させたのである。 象徴的にも農家数は長らく変わらなかった。それが本当に減少に転じるのも、もっとふえんすれば、雇用者(労働者)が自営業者や家族従業者を凌駕して有業者の最大比率を占めるのも、戦後の経済成長が始まった50年代後半のことである。要するに日本では、長らく定着プロレタリアの層が薄かったともいえよう。
 もっとも、大工場は早くから先進的な技術を取り入れ、その技能の担い手の企業内養成を図っている。そこに選抜された高等小学校卒の養成工は、後に年功制の労務管理が整備されてゆくにつれて、昇給制や企業内福利をもつ「子飼いの」従業員になってゆくけれども、戦前はそれほど安定的な待遇だったわけではない。昇給も不確かで、なによりも企業はなんらかの不都合があれば容赦なく解雇の自由を行使した。しかし、少なくとも彼らは、離村して会社に定着する条件に恵まれた例外的な存在であった。
 この「例外」が、日本では唯一の労働者の一定の凝集性、<労働社会>(その9参照)をつくることになる。すなわち企業社会である。その負の遺産については後に述べるが、ともあれ日本プロレタリアの大多数は、それぞれに農村に家族的な絆はあるとはいえ、英米にみるような職業社会も、スラムを基盤とする地域一般労働社会ももたなかった。それらを育てる条件はなかった。彼ら、彼女らは、都市では、「生活の必要性と可能性の等しさが可視的な」いかなる労働社会にも帰属しない孤独な稼ぎ人として漂っていた。
  
 しかしながら、日本の労働者像はもとより、上にかんたんに述べた日本プロレタリアの形成過程論をもって十分に把握できるものではあるまい。いくつかの難問が私の前に立ちはだかっていた。例えば次のような考察が必要だと感じられた。
(1)日本の労働者に国際比較的にみて特徴的な性格を刻印した近代史の要因はなにか。こうして召喚された労働者を包摂する、近代日本の国家社会の枠組みはどのようなものか。(2)その枠組みのなかで、日本の労働者はどのような心情や思想を紡いだのか。
(3)こうした心情や思想は、やがて到来した現代史、戦後民主主義のもとでどのように展開したのか
 いずれも容易ではない設問であるけれど、そのいちおうの理解を経て、私はその後、(4)唯一の労働社会となった企業社会において、労働者が職場内外の生活で体験した数々の試練、(5)以上の歴史的体験ゆえに浸透・確立する、日本に特徴的な能力主義管理の特別のインパクト――などを分析することになる。さしあたりは、(1)~(3)をひと続きのテーマとして、おおまかに研究結果を回顧してみよう。ここからしばらくは、前回までのキーワードを窓口にした順不同のエッセイとは筆致が異なる論文風になる。
 私にとってなによりも課題は、周辺領域の学びをふくむ日本の労働史に関する知見の乏しさであった。懸命の文献の読みが始まる。私はむろん大河内一男や隅谷三喜男の概論、兵藤釗や二村一夫の敬服すべき精密な業績に多くを学んだ。しかし、それまでに労働者の仕事・職場・闘争などについて細密かつ濃密に事実を綴る英米の労働社会学に傾倒してしており、労働者の細部にわたる体験や「物語」にこだわる私にとって、社会政策学会系統の学術書ではやはり飽きたらなかった。現在でも同じ気持ながら、たとえばイギリスの労働者文化論の古典、リチャード・ホガース『読み書き能力の効用』(1974年)のような書物がほしかった。労働者の人間像を理解したかったのである。
 ともあれ、その当時の私の勉強は、「労働者像」のイメージをなんとか得るため、学問分野にとらわれず、言ってしまえば手当たり次第に、日本近代史、精神史、労働と職場の調査やルポ、労働運動史、片山潜、鈴木文治、西尾末広などリーダーたちの自伝、そしておよそ働く人びとの体験を活写する文学などを精読または乱読することだった。いずれからもなんらかの示唆に恵まれた。しかし、それぞれの読みの成果をここでくわしく述べることはひかえ、とくに多大の情報と重要な視点を与えてくれたように思われる文献のタイトルだけを思いつくままにふりかえってみよう。例えば次のような著作である。
 横山源之助『日本の下層社会』および『内地雑居後之日本』(1897-98年)。農商務省商工局『職工事情』(1903)。細井和喜蔵『女工哀史』(1925年)。大河内一男/松尾洋『日本労働組合物語』(全五冊)(1965年)。神島二郎『近代日本の精神構造』(1961年)、安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(1975年)。久野収/鶴見俊輔『現代日本の思想』(1956年)。そして労働者の発想を掬う文学としてひとつあげれば佐木隆三『大罷業』(1961年)。
 私はまだ40代のはじめで心身に不安なく、家庭的にもまことに恵まれていた。研究グループはなくひとりだけの研究の営みであったが、それだけにまったく自由に、学問領域の垣根にとらわれずにイメージを膨らませることができたと思う。そんな自由な勉強のいちおうの成果は筑摩書房刊『日本の労働者像』(1981年)にまとめられている。この本と、1986年の『職場史の修羅を生きて 再論・日本の労働者像』のなかから好評であった何篇かを選んで編集した1993年刊行の『新編・日本の労働者像』(筑摩学芸文庫)が、私の研究史中期の代表作ということができる。アメリカで翻訳され、社会政策学会学術賞を受けた作品である。

 以上は<日本の労働者像を求めて>を書き継いでゆく前書きのようなものである。では、回をあらためて。まず設問の(1)日本の労働者に国際比較的にみて特徴的な性格を刻印した近代史上の要因、彼ら、彼女らを包摂した近代日本の国家社会のフレームワークはどのようなものだったのか――について、私の解答を概説しよう。
 それはなによりも、下級武士たちのイニシアティヴによる明治維新後、伊藤博文らが巧みに構築した「神なき国」において国民諸階層を統合する装置、天皇制であった。ふつう労働史、労働研究では重視されないけれども、私には、天皇制こそは、戦前来の労働者の生きざまの選択をつよく規制した無視しえぬ枠組みであったように思われる。では、私はなぜ、労働者像を探る文脈で天皇制にこだわるのか?