その11 日本の労働者像を求めて(2) ヤヌスの天皇制と労働者の誘導

 近代日本国家の天皇制は、ヤヌス(双面神)であり、タテマエの理念とホンネの実態という不可分のふたつの相貌をもつ。思想史のタームでは、それは「顕教」vs.「密教」とも表現されている。
 タテマエの理念は、天皇を神とする一方、その下の「臣民」は身分的には「四民平等」であるとする。今ふりかえれば、華族、士族、平民の区別もあり、関東大震災の際の大量虐殺に典型的に見るように、戦前から日本に連行され酷使されていた朝鮮人などは視野の外である。その「平等」の欺瞞性、少なくとも限定性は明かであろう。実のところは実際は神話または幻想ということができる。それでも、「士農工商」というがんじがらめの身分制に生きてきた多くの平民にとって、新しい天皇制のタテマエは、希望の福音にほかならなかった。
 しかし一方、ホンネの実態では、権限や処遇が大きく異なり、上下の命令・服従関係を疑うことが許されない不平等な階序組織の厳存が正当化されている。密教の政治機構では、天皇は実は「機関」にすぎないが、官庁や軍隊では、この階序組織が、顕教の「神」=天皇の意向にしたがって、天皇の統治を「補弼」する、つまり実際の政治運営に権力をふるうのである。官庁や軍隊において、ひいては官営・民営企業でも制度化されてゆくこの階序的で不平等な上下関係は、そもそも権力が絶対に必要としたシステムであった。ここに注目すべきは、こうした天皇制の双面性から、次のような統治政策が自然に打ち出されることである。
 その1。学校教育の内容はきわめて階層的になる。貧しい庶民がふつうそこで学歴を終える初等教育では、顕教のタテマエだけが徹底的に教え込まれた。大多数の下々の「臣民」は「現人神」の下で平等であると学ぶのだ。密教のホンネ、階序組織の不可欠性を学ぶのは、戦前にはまだほんの少数であった中等教育以上に進学する広義のエリートだけである。それゆえ、のちに盲目的にタテマエを信じて暴走した軍部「皇道派」が排撃した天皇機関説などは、ホンネを学んだエリートには、決して公言することは許されなかったとはいえ、実は自明のことであった。
 その2。四民平等の理念と不可欠な階層序列の実態という、本来的に矛盾する要素をなんとか調和的に共存させるためには、なんらかの階層流動性・「人材登用」のシステムが用意されなければならなかった。「天性同体ノ人民賢愚其処ヲ得ベシ」(伊藤博文)。すなわち人を門地や家柄でははなく、能力・業績・努力を評価して人を階序のラダーに位置づける構想である。それは「士農工商」のしがらみを体験してきた庶民を勇気づけ、積極的な前向きの行動エネルギーを引き起こすものだった。ここから、「身を立て名を挙げやよ励めや」の競争的上層志向が鼓舞され、見田宗介が「日本近代の内面的推進力」とみなす「立身出世主義」(『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年)が、全階層的な規模で噴出するのである。私の表現では、こうして、日本の階級形成は「生得的(生まれつき)ではなく結果的(能力と努力の結果)」という性格を帯びることになる。
 とはいえ、明治憲法が近代国家の諸制度を確定してゆくにつれ、現実に立身出世主義の努力の末に相当の権力をもつ階梯上の地位を得ることのできる人はもとより限られてくる。秀才は階層上昇を遂げる原則はあれ――女性の場合は「美人は報われる」というべきか――圧倒的な貧困層の存在ゆえに、中等教育以上への進学者は絶対的に制約されていたからだ。だが、階層流動性の存在への一定の信頼がなければ、国民の永続的な活力を期待することはできない。そこで推奨された国民道徳が「(二宮)金次郎主義」(見田宗介)である。すなわち、どんな下積みの仕事でも実直に刻苦精励すれば、それなりの相対的に優位な地位の生活水準を獲得できるというのである。 
 それは酷薄なまじめさ・実直さの搾取だ。だが、この場合でも庶民は、いつまでも「カエルの子はカエル」ではないという「四民平等」の天皇制の理念・タテマエに殉じたのだ。もし日本の天皇制が平等のタテマエを掲げない、ひとえにブルボン朝やロマノフ朝のような差別と抑圧の絶対主義であったなら、すべての国民がこの「立憲天皇制」に心情的に帰依することはなかっただろう。
 しかしながら、庶民が天皇制のタテマエに帰依し立身出世に賭ける生きざまを選ぶことの代償は大きかった。それは、階層上層の努力の過程では、階序そのものの不平等性を問わぬこと、上位の権力者を批判しないこと、ひいては階層上昇の不成功はみずからの能力と努力の不足のゆえだと覚らされることだった。こうして会社つとめの多くの労働者も、低賃金の仕事に不平を言わず実直に取り組んで企業内の階梯を経上がり、やがては下級管理者や小工場主になることをめざしていた。「職工は人生の経過的なありようとしたい」。この心情は、戦後もなお1950年代頃までは、一般庶民や未組織労働者の心に連綿として生き続けたのである。

 天皇制のはらむ平等の理念(タテマエ)と不平等の実態(ホンネ)の間をなんとか調和的に共存的に調和させる「人材登用」と出世主義の鼓吹。この日本近代の政策の不可欠の一環は、下積みの人びとがその立場のままで貧困の状況改善や権利の拡大を求める思想の徹底した否認にほかならなかった。労働者については、団体交渉やストライキの禁止、すなわち、西欧では19世紀末までには徐々に承認されていた産業民主主義の断固たる否定である。戦前・戦中の日本国家は、失業保険制とともに、どのような争議や要求があっても、ついに労働三権を保障する労働組合法の制定を拒み続けたのである。
 唯一の労働法制は、明治30年代に芽生えた労働組合を根こそぎにした1900年の治安警察法である。それは組合結成およびストライキの「煽動」を禁止し、一切の組合活動に対する官憲の介入を制約なく合法化していた。つまり他の労働者なかまに働きかけてはならないのだ。それゆえ、勇気をもって敢行された非合法の労働争議は、たいてい次のような軌跡を辿った――①過酷な低賃金や長時間労働などの改善、解雇撤回、あるいは団体交渉権を求める労働者の懇願⇒②会社の団交拒否⇒③やむなき非合法のストライキや怠業⇒④右翼団体との乱闘⇒④警察署長や市長による収束の斡旋(生産確保を考慮した一定の譲歩もある)⇒一段落後における争議のリーダーたちの解雇または大量解雇・・・。すべての結末は犠牲を伴う労働者の敗北であった。大成功した実業家、渋沢栄一の言うことには、努力せず怠けて貧苦に陥ったのにひたすら富の平等を叫ぶ「社会党のごときは宜しくない」のだ。   
 この治安警察法に1925年治安維持法が重なる。にもかかわらず、ここではくわしく辿らないが、このような厳冬の時代にあっても、日常の過酷な労働体験から、天皇制の理念と実態の懸隔を凝視し「出世」の虚妄性を痛感してあえて闘いに挑む労働争議が絶えることはなかった。その消長はあるにせよ、昭和初期の大不況期には、労働争議件数は、1928年には379件、争議参加人数はおよそ4.6万人、30年にはそれぞれ906件、8.1万人、31年には998件、6.5万人を記録している。今日とくに忘れないでいたい、「戦後1974年には(労働争議は)5197件もありましたが、2021年の半日以上のストライキはわずか33件です」と『語りつぐ東京下町労働運動史』(2024年)の著者、小畑精武は呟いている。
 戦前の大争議における男女「職工」たちの勇気と侠気、創意ある戦略の工夫などに触れるとき、私はいつも感銘を禁じえない。しかし文脈上「労働者の人間像」に立ち戻るなら、コミュニストを別にすれば、争議の労働者が天皇制にも天皇個人にも弾劾の鉾先を向けることはなかったように思われる。足尾鉱山暴動(1907年)の際、鉱夫たちは明治天皇のご真影を安全な処へ移した上で全山焼きうちをはじめたという。天皇制の「四民平等」の理念は抵抗者の心にも内面化されていた。かつての百姓一揆がしばしば時の道徳である儒教の「仁政」を掲げて苛斂誅求の領主に刃向かったのと同様に、争議の労働者たちは、天皇制の平等のタテマエを信じてこそ、こんな酷い労働条件を「天子さまがお許しなさるはずがない」と感じて労働現場での闘いに赴いたかにみえる。八幡製鉄大争議(1920年)を舞台とする佐木隆三の『大罷業』(1961年)は、この発想を汲み上げてまことに興味ぶかい小説である。もちろん、こうした天皇制のタテマエへの期待は無残に裏切られ、労働者は天皇の官憲によって徹底的に弾圧されるのである。
 天皇制の平等というタテマエへの悲劇的な幻想は、とはいえ、後に述べるように、戦後民主主義が到来したとき、推転してしかるべき役割を果たし、戦後日本の労働者思想の一契機となってゆく。しかしその「推転」に入る前に、企業社会こそが日本型の唯一の労働社会になった理由と、その評価にふれておきたい。