職業社会も地域一般労働社会もなく孤独な稼ぎ人であった日本の労働者を、相対的に安定的な居場所と可視的ななかまを見いだすことができる労働社会に帰属させたものは、直接的には、大正末期から昭和にかけて大企業がうちだした年功序列制・年功的労務管理ということができる。
その年功制の構成要素は主要には選抜採用された正規従業員の長期雇用の「約束」、勤続や年齢を評価する昇給制、副次的には退職金や企業内福利である。それに、1931年の満州事変の頃から上の諸要素に臨時工制度が加わり、賃金総額と雇用人数の弾力性の要請が満たされるようになって年功制は完成する。もっとも、出稼ぎ後にはふつう帰郷して短勤続のうえ賃金もわずかの時間給の「女工」は、もともと企業社会の外なる存在であり、彼女らが、臨時工とともに、年功的労務管理の対象とされることはなかった。以下、労働者とはもっぱら男性のことと想定して議論を進めよう。
年功制の構造的な背景は、外来の近代技術を用いる新旧財閥系の大企業と、都市や農村のマニュファクチュアや手工業に発する多数の中小企業との「二重構造」であり、その間の大きな処遇格差だった。一方、農村からは企業のプル・農家の口減らしのプッシュに応じて地位の不安的な出稼ぎ型、半農型のプロレタリアがにじみ出ていたけれど、農村はいつも潜在的過剰人口が重く滞留する労働力の給源だった。そんななか、選ばれて大企業の養成工となり年功制度に入ってゆくことは、高小卒の若者にとって得がたい成功の道であった。
こうしたなか労働者の年功制の受容はまことに自然である。まず、それまであらゆる意味で定着性のなかった労働者は、企業社会ではじめて、集団労働のなかで自分の仕事ぶりが他人の仕事の苦楽と密接に関わっているなかまを見いだすことができた。また、そこでは、明治以来推奨されてきた立身出世主義の、自分にも現実的な成果を、まじめに長勤続して企業の職務階梯・ステイタスを一歩づつ歩むことのうちに見通すことができた。それに、誰にもひとしい加齢にそれなりに報いるという年功制のある種の平等性も、「四民平等」の理念に適合的なように思われた。それになによりも、年功賃金は広汎な低賃金の海のなかに浮かぶ島のような相対的高賃金であり、労働者が貧困の生活を脱出する具体的な方途だったのである。
けれども、大企業が年功的労務管理のなかに忠実な従業員を取り込もうとしたのは、労働者のもうひとつの結集体である労働組合、とりわけ企業横断の労働組合の団体交渉を断固として排除するためであり、その成功はその排除の結果であることは決して忘れられてはならない。
たとえば1921年の6月~8月、総同盟神戸連合会傘下の神戸三菱・川崎造船所の労働者は、いくつかの機械企業をも巻きこんで、賃上げや時短とともに「横断組合の承認」を求め、ストライキ、怠業、工場管理をふくむ、約3万人の参加する45日間の闘いを敢行した。この大争議はしかし、産業民主主義をどこまでも拒否する企業と国家に抗い続けることができず、1300人が解雇され、100人もが収監されて「完敗」するにいたる。労働者は結局、企業外に労働社会、なかまの絆をもつことがゆるされなかったのだ。この象徴的な事例、横断組合の承認をめぐる資本の勝利・労働者の敗北が、それ以降の大企業の年功的労務管理の普及に影響し、そこに帰属してゆく労働者の心情にはるかに木魂している。
日本唯一の労働社会、すなわち年功制度の大企業への服属として形成された企業社会は、イギリスやアメリカの労働社会とはさまざまな点で性格を異にしていた。
二点ほどにまとめる。ひとつは、工場の塀による、つまり特定企業の正社員身分の有無による構成員の限定である。他企業の労働者、臨時工や社外請負工は、ときに地域の大規模な労働争議のとき連帯行動に加わることが皆無ではなかったとはいえ、日常的には、同じ仕事であっても「可視的ななかま」ではなかった。現在でも基本的に不変の、それは従業員の企業内意識である。
いまひとつ、労働者の貧民の海からの「離陸」先は、多段階の地位序列をそなえ、本来的に刻苦精励の競争を強いられる企業にほかならならない。そこでは、競争制限や助け合いといった労働者文化の自立性がやはり脆弱だった。言い換えれば、経営者文化と労働者文化が未分化のまま、下層労働者、ベテラン従業員、下級管理者、経営者が一続きになっている。企業内は生得的な意味では無階級社会という想定なのだ。その「未分化」の自然な結果は、低学歴で昇進にも限度がある下積み従業員であっても、競争志向の能力主義になじみをもつようになったことである。こうして、よかれ悪しかれ、「庶民的開き直り」のあまりない労働者像が形成されてくる。「庶民的開き直り」とは、この職場のこの下積みの職務のままで生活を改善し発言権を拡大する、ここで闘うという思想である。こうした考え方の欠如が、「人材登用」・ 出世主義の鼓吹・ 産業民主主義の否認を一体のものとする国家規模の統治政策と適合的であることは、あらためていうまでもあるまい。
企業に外在的な存在で自立的な労働者文化を培いうる職業社会や地域一般労働社会とは異なる、日本の労働社会・企業社会の負の伝統は、日本の労働者を、一介の労働者であるという立場を人生の一経過点とみなし、絶えざる上昇アスピレーションに身を投じる人びとに造型したということができる。
もちろん、企業社会の外に放置された、およそ労働社会をもたない人びとがこの「造営」をまぬかれたわけではない。それは日本プロレタリアの共通の性格となった。ふつうの労働者のこの上昇アスピレーション志向は、そして、かたちをかえて、労働者一般にとっても「中流階級的」な生活向上がさほど虚妄でなかった戦後もおよそ90年代頃までは、労働者の心に執拗に生き延びたように思われる。顧みて思えば、労働者思想の自立性とは労働社会の自立性そのものであった。
さて、労働者像の探求という叙述の流れを外れるけれど、ここで、天皇制のタテマエの理念(顕教)とホンネの実態(密教)との間の矛盾が、権力内部での対立を惹起し、それが体制の瓦解を招いた軌跡を、今では常識に属することだが、ごくかんたんにふりかえっておきたい。次回に述べる戦後民主主義のもとでの労働者思想の転轍を理解するためでもある。
国家の諸組織の上位ポストにある権力者たちは、むろん天皇制の「密教」の信者であったが、神である天皇の下では「臣民」は平等という、いわば神話的で幻想的な「顕教」のタテマエを公然と批判することは決してできなかった。それが「下々の者」に教え込んできた道徳の大元だったからだ。だが、この矛盾にに気づきながら沈黙を貫くことは、力ある勢力が、対外危機の局面で、まともにタテマエをホンネと信じこみ、双面神のはらむ欺瞞性を撃つ「密教の顕教征伐」に乗り出したとき、それに有効に対峙できなかった。力ある勢力とは、天皇統治の「補弼」ではなく、天皇専権の統帥権(軍隊を動かす権力)に直属する軍部にほかならない。そこでは天皇親政・国体明徴を奉じる「尉官以下」の軍人が、欺瞞性を突く「皇道派」を形成して暴走することになる。
天皇制の階序秩序を守ろうとする「佐官以上」の軍人が属する密教信者の「統制派」は、二二六事件の弾圧に見るように「暴走」を一定チェックし、権力を維持しはした。しかし天皇制の理念を公然と掲げる皇道派の論理――といえるかどうか?――は、右翼の思想家や団体ばかりか、富裕層本位の堕落した政治を憤る庶民の応援を得ており、暴走のおそるべき惰力を止めることはできなかった。とどのつまり、統制派は皇道派の論理を表に立てた軍部独裁を通じて、政党政治・立憲議会制を崩壊させる天皇制ファッシズムを樹立する。こうして日本帝国は、判断力を奪われた国民の熱狂と献身に支えられ、「八紘一宇」のアジア侵略を経て無謀な太平洋戦争に突入する。日本人だけでも310万人、アジアでは何千万人もの生命が失なわれた。そして、「国体」維持にこだわって遅きに失した敗戦の結果、天皇制ファッシズムの体制は瓦解し、戦勝国アメリカの占領軍から日本人は民主主義を「与えられる」ことになる・・・。
閑話休題。では、日本の労働者像の探求に立ち戻ろう。