およそ選挙に際しての支持政党を問うアンケート調査で、いつもて最大多数を占めるのは「支持政党なし」の「無党派」層である。そこで、各政党は、区々たる支持率の変動に一喜一憂するのではなく、この無党派層の生活上の願いに応えるような政策づくりにこそ注力すべきだというのが、たいてい「識者」のアドヴァイスになる。
それはそうかもしれないけれど、アドヴァイスの前提としての無党派層へのある種の寛容な理解に、私は違和感がある。そもそも、無党派層の回答者のうち、自分のニーズを各政党の政策とすりあわせて検討したうえで、支持できる政党・候補者なしと結論する人びとはきわめて少数であろう。だが、この場合でも、議会制のもとでの選挙では、どの政党にも全面的には支持できないとはいえ、それでもよりましと思われる政党に一票を投ずるべきなのだ。それがまともな市民のつとめといってよい。
しかし、より深刻なことには、無党派層の大半はおそらく、上述の<熟考⇒結果的棄権>派ではなく、はじめから自分をふくむ人びとの生活や情念に深く関わる政治というものにまったく無関心で、およそ両者の関係性を考えたこともないという大グループであろう。体制や政治、ひいては戦争の危機や人権の蹂躙などの現実を意識の外において日常を送ることができるのは、古来、庶民の幸せの証拠だったかもしれない。しかし、現時点の日本では、庶民の生活の大枠はも安泰ではない。このまま事態が推移すれば、明日の世界はどうなるだろうか? 彼ら、彼女らは、棄権ならまだいいが、たまたま選挙に出かけて、政策の方向なんかはわからないが、NETではなんかおもろそうと感じて、冷笑的でたぶん反動的なポピュリスト政党に投票するかもしれない。
私のそんな杞憂は、電車では10人9人が、社内の人びとをいっさい無視してスマホから顔を上げない光景からも来ている。ちなみにあのチャップリンの母親は、地下鉄でいつも、出会うひとの佇まいや表情から、その喜びや苦しみや悩みを推しはかって幼いチャップリンに語り、よく見ておくんだよと諭したというけれど。