1945年4月~6月の沖縄戦の戦没者は、沖縄県の推定では、米軍1.25万人、沖縄出身の軍人・軍属2.83万人(うち大半は民間人)、他都道府県出身の日本軍6.59万人、そして一般県民9.4万人である。一方、定説では、沖縄で約20万人、県民の約1/4が命を失っている。この史上まれにみる痛恨の悲惨事にふれて、私たちが死者たちを哀悼し、平和の希求こそ思想の原点と心定めるのはまことに自然である。
とはいえ、この悲惨事をひとえに日米間の戦争のゆえとし、もう決して戦争はしない・してほしくないと願って「終わる」(?)良識に、私はかねてからつよい違和感を覚えてきた。沖縄戦では、ほんとうはこれほど多数の沖縄人が死ぬことはなかったのだという思いを拭いきれないからである。主として80年代以降の克明な体験ヒアリングが明らかににしたことながら、国体護持のイデオロギーとご都合主義の戦局観に駆動された中央・地方の政治権力、教師たち、そしてもとよりおよそ人命を顧みない日本軍、時流にまったく無批判だったマスコミなど・・・の合力が、沖縄を本土の捨て石とする差別感を媒介にして、沖縄人にあまりに過酷な犠牲を強いたのだ。
無残なエピソードは枚挙に暇がない。住民からの食糧や労役の容赦ない調達、民間人の軍属への編入、少年の鉄血勤皇隊や少女のひめゆり部隊への動員、多くの餓死や病死を招いた食糧が不足しマラリアに汚染された地域への強制疎開、不確かなスパイ疑惑による処刑・・・。軍は住民を引き連れて明日なき後退戦を試み、ガマが狭ければ「帝国軍人」優先で民間人を砲火のもとに追い出した。なによりも、軍は、みずからの中国侵略体験から、捕虜になれば女は強姦、男は処刑か奴隷労働と声高に訓示して、「生きて俘虜の辱めを受けず」の戦陣訓を民間人にも強いて、最後まで降伏を許さなかった。この「降伏許さず」の罪ははかりしれない。そして挙句の果ては、各人に手榴弾を配って「集団自殺」を命令したのだ。家族を手にかけるまでに追いつめられた者にいくらかの自発性があったにせよ、その自発性は、日本軍の暴力的強制を前提にすればそれを重視することはできない。要するに日本の軍権力は、多くの沖縄民衆を、自死させ、あるいは少なくとも間接的には米軍に殺させたのである。それらはまぎれもなく戦争犯罪ということができる。
感銘ぶかいことに、投降は許さずと怒鳴る日本軍指揮官がいなかったガマ、ハワイ移民の体験などから米軍は捕虜は殺さないと予測した者がオピニオンリーダーになったガマなどでは、多くの村民が投降して生き延びることができた。研究者たちの沖縄戦体験者へのくわしいヒアリングは、きびしい状況下でも、なんとか人命を守ろうとした教師や医師や故老の佇まい、なんとか自力で生き延びた人びとの懸命の姿を伝えている。そこにこそ戦後の平和運動につながる精神がある。ともあれ、くりかえしいえば、ここで、このとき、これほど多くの沖縄人が死ぬことはなかったのである。
陸軍第32軍司令官・牛島満は、30年にわたって沖縄戦における彼の役割を反省的に検証し続ける孫の教師・牛島貞満の語るところ、要旨およそ、祖父は「天皇への忠誠心だけあって、兵士や沖縄住民の命を省みることはなかった」。牛島は6月19日、「最後の一兵まで徹底抗戦し、悠久の大義に生きよ」と最後の命令を下し、みずからは23日、参謀長・長勇とともに自決した。防衛庁周辺では今でも「帝国軍人の鑑」と崇められていると聞くが、思えば、なんという視野狭窄、無責任、単細胞の愚かな将軍だろうか。
歴史に「もし」と問うことはできないかもしれないけれど、牛島満が、5月22日に首里からの南部撤退などを決定せずに、そのとき米軍に降伏し、みずから捕虜になって、兵士、住民の命を乞うことがあれば、どれほど膨大な人の命が救われただろうか。古来、戦局われに利あらずならば、白旗を掲げるのがすぐれた軍人というものではないか。また、たとえ日本軍は闘い続けるとしても,一定の地域を非武装地帯に設定して住民をそこに避難させ米軍に通告する(この場合、住民は抵抗を受けず進駐する米軍の保護下に入る)という選択もあったはずである(林博史『沖縄戦――なぜ20万人が犠牲になったのか』302頁)。だが、現実には、日本軍は民間人を、軍属、予備軍、労役者として引き連れて絶望的な抗戦を続け、屍の山を築いた。牛島の自決以後でさえ、彼の命令ゆえに必死に逃げ惑う人びとの悲劇は続いたのである。摩文仁の戦没碑に、牛島の名はみんなと同じ大きさの字で刻まれているけれど、彼の死は無名・無辜の人びとの死とひとしいものとして埋もれさせてはならない。
本当に悲劇をくりかえさないためには、戦争そのものとむごたらしい犠牲とを直結することをやめ、それほどまでに到らずともよかったはずの死傷をもたらした政府や軍隊の直接的な権力行使の責任をどこまでも追及すること――次世代の私たちにはその責務がある。そこを回避して、直接の権力を行使した者たちに寛容に、ただ平和を願うだけならば、主体的で強靱な反戦の思想と行動は生まれないのだ。沖縄の人びとの一角にはやはりなお、「本土」の沖縄への一般的な関心とかつての死者たちへの哀悼を超える、上のような質をもつ思想と行動の息吹きがある。
*カットはシャガール「戦争」(1964~66年)
