最低賃金と貧困(2023年7月24日)

 パーソナル総合研究所の調査によれば、「働くことを通じてしあわせを感じる人の割合」は、日本では49.1%で、主要先進国の70%台後半とくらべて極端に低く、世界18カ国中の実に最低という(朝日新聞23.6.26)。
 私はくりかえし日本の労働状況を辛辣に批判してきたが、空しく感じもして、実はもう倦んでいる。だが、ときに、これだけは忘れまいと記しておきたいことが心によぎる。もちろん多少とも「他人」の労働と生活の貧困に無関心でない人にはご承知のことだが、みんなに広く知られていることだろうか、それは最低賃金と貧困の関連である。
 フルタイム労働者の賃金の中央値に対する最賃額の割合(%)は、OECDの2021年の調査では、フランス61.0、イギリス56.9、ドイツ51.1であるが、日本では44.9にすぎない。その高低は、貧困率(世帯人数で調整した収入が中央値の半分以下の人の比率)とほぼ逆相関にある。また最近、慶応大学の山田篤裕教授にあらためて教えられたことだが、いちおうは貧困線未満の労働者のうち最賃額の1.1倍より低い賃金で働く労働者の割合は、04年の4割強から19年には約6割に高まっているという。山田は続けて、少なくとも最賃額を1015円にはすべきだと論じる。そうでなければ、短時間労働者が健康保険や厚生年金保険に入るには「週20時間以上働き、収入が月8万8000円以上」という条件があるため、月8.万円を時給に換算した時給1015円がなければ、いちおうふつうの生活のできる社会保険制度から弾かれてしまうからである(朝日新聞23.7.20)。
 岸田内閣が仰々しくいう「最低賃金1000円を」なんて今さらである。朝日新聞など有力メディアは、貧困の実情などはよく報じるけれど、労働問題の最賃と社会問題の貧困との不可分の関連をよくわかっているのか心許ない。まして、そこに関わる人びとの労働運動、社会運動の実践には徹底して無関心である。猛暑のいま、携帯扇風機とスマホを手にして通り過ぎる「市民」に、最賃1500円を!と訴えるユニオンの営みこそ、まさに貧困との闘いなのだとわかっているだろうか。
 付録のスナップは、我が家のさるすべり、近影、妻と愛用の伏見・鯱市のカレーうどん、節約した「王将」での夕食。

戦争の危機――問われるべき国民意識 (2023年6月16日)

 戦後の日本人にとって憲法9条こそはすべての人倫の基礎である。幼少の頃からそう信じてきた私は80歳代半ばになったいまはじめて、日本は本当に戦争に巻きこまれるかもしれない、あるいは戦争を始めるかもしれないという不安にとらわれている。2015年安倍内閣によるアメリカに対する集団自衛権行使の約束と、岸田内閣による敵基地攻撃能力整備・軍備倍増の安保三文書の閣議決定を併せ考えると、専守防衛の原則をふみにじって日本が海外においてさえ軍事行動を起こす可能性は明かだからだ。それは過剰の危機意識でもたんなる杞憂でもない。

 だが、いっそう不安なのは、ふつうの戦争のできる国への歩みに対する国民の危機意識の希薄さや欠如である。世論調査は時期や設問タームによって変動するとはいえ、2022年から23年初夏にかけて、敵基地攻撃能力保持については賛成が56%、反対が38%であり、しかも若い世代ほど支持率が高い(朝日新聞23.1.6)。「防衛力強化」に関する質問では賛成は68%、反対は23%(読売新聞22.11.6)。憲法9条を改正して自衛隊を軍隊と明記することについては、賛成51%、反対33%である。女性よりは男性のほうがはるかに賛成が多いことが印象的だ(朝日新聞22.7.4)。国民は増税に反対するけれども、軍事費大拡大には抵抗するわけではない。その背景にあるものは多分、実に80%の人が賛成するという、覇権主義的な動きを示す中国を「脅威」とみる(読売新聞22.11.6)おそらく過剰の警戒感であろう。

 それにしても、少なくとも20%強から40%弱の国民はなお、以上の戦争準備に反対の立場である。問題は、この少数とはいえない反対勢力が、選挙運動以外の反戦・憲法擁護の社会運動を、力強い質量をもって展開できないでいることであろう。ここから思うに、いま諸組織のリーダー層は、1970年~84年生まれの40歳から50歳代前半のいわゆるロスジェネ世代である。91年~2001年の就職氷河期に社会に出たこの世代は、それからの生活の明暗が階層的にくっきり分かれる存在であるが、成功者も不成功者も、それぞれにその生活条件は自己責任とみなされるゆえに、厳しい選別のなか競争に生きてきた。その惰力は、連帯の労働運動や社会運動によって体制の構造を批判し、自己責任論を乗り越えてゆく発想をもたなかったことである。ロスジェネ世代は、その思想形成期にそのような連帯の運動の営みを経験したことも、みたこともないのだ。その世代が、今や、人びとが日常的に属する界隈――職場や地域や学校の保護者会や地方行政における小ボスである。この小ボスの卑俗な現実主義に支えられる慣行が、総じて強力な同調圧力を瀰漫させる。個人の受難を見過ごさず社会の構造的矛盾を指摘しようとする少数者は、KY、空気が読めないものとみなされ孤立させられることを怖れて黙り込むのである。職場での、労働組合の会議での、ボスの提案に対する批判の完全な欠如は、その典型的な姿にほかならない。

 では、このロスジェネ世代の子どもたちである10代、20代の若者の意識状況はどうか。青年男女は一見、体制に逆らわず競争社会に順応するようにとの両親の説教を無視するかのようにみえる。だが、現時点の学校では、社会の構造的矛盾や日本近現代史の暗部については教えられ、学ぶことはもうほとんどない。そればかりか彼ら・彼女らが日常的に属する教室がすでに強力な同調圧力の界隈なのだ。社会や政治の深刻な問題を友だちに語りかける若者は変わり者の「そっち系」として疎外される。そんななか、若者の間では、およそ社会を批判すること自体が、自己責任や自分の努力不足を忘れて他を責めるはしたない行為と受け止められているかにみえる。「中立」の名目をひとつ覚えとする教師もまた、この傾向に棹さしている。学校では、街頭の市民団体のビラを決して受けとらないように「指導」しているという。

 各地にみることができる、非正規労働者たちの、さまざまの被差別当事者たちの社会運動に私は希望を見いだす。だが、他の主要国とくらべれば、その厚みの無さ、若者参加の乏しさは否定できない。こうして私の日本の国民意識の評価は絶望に近づく。そしてこれ以上、私は議論を進めることはできないのである。
 とはいえ、労働研究の眼から見れば、50代になっても非正規労働者のままであり、ひきこもりも増えているロスジェネの不成功者も、ブラック企業のいじめと収奪に翻弄される若者も、苦しみの根源は労働問題にほかならない。その根源への挑戦はひっきょう企業の枠を超えた地域別、産業別、職業別労働組合によってしか果たされないだろう。働く人びとが、自己責任論の虚妄性に気づき、多様な労働組合運動の営みをはじめる日がきっと来る。それが市民運動と連携して<非戦・当事者発言権・侵されない人権>を掲げる護憲運動の器にもなる。その確信を私はまだ捨てていない。 

*(図版はマルク・シャガール「戦争」)

2023年春闘に思うこと(23年3月16日)

 自動車、電機、重機械などの大企業の「春闘」で満額回答が相次いでいる。JAM幹部などはもう有頂天だが、それほど、それは寿ぐべきことだろうか。
 今に始まったことではない。かつて日産自動車では満額回答が慣例だった。そもそも組合の要求そのものが企業とのひそかな合意のもとでつくられていたからだ。今年も、組合が経営側の意向に抗して交渉でがんばったというよりは、欧米では考えられないことだが、要求額が企業側との事前調整が行われていたため、すんなりと「妥結」したのではないか?ストの構えなんてはじめからなかったというのは、もう野暮なことだろうか。もともと要求水準が低すぎる。今の4%の物価高では、たとえ定昇込み3.8%で収束しても実質賃金の上昇は見込めない。せめて10%くらいの要求が当然ではないか。
 連合や「識者」は、この満額回答が中小企業や非正規労働者の賃上げに波及することを期待している。しかり大企業正社員以外の労働者の賃上げこそが最重要の課題である。しかし、上の「期待」がほんものなら、連合傘下の大企業労組は、自社の取引先、とりわけ下請企業でのコストアップにみあう価格引き上げの容認をはっきり「要求」すべきであろう。そこで闘え。あるいは、いま真に意義ぶかい営み――非正規労働者を組織するいくつかの地域ユニオン・コミュニティユニオンが連帯して10%賃上げを求める直接行動を、財政的に、または組合員の動員をもって支援すべきである。それらができるか? できなければ、大手企業の春闘相場がどうあれ、実質賃金の確保は危うく、社会的な賃金格差と中小企業労働者と非正規労働者の構造化した低賃金は変わらないだろう。

NHKのすぐれたドキュメント(23年3月2日)

 ひごろNHKの報道番組はあまりにジャーナリズムの神髄であるはずの批判精神を欠いていて失望させられるばかりである。ついでに言うと、アナウンサーがさよならと手を振る、「まるっと!」なんてばからしくないか。けれども、NHKの調査報道・ドキュメントについてはなお、取材の広さと深さにおいて必見の作品も少なくないように思われる。
 例えば2月25日放映のETV特集「ルポ 死亡退院~精神医療 闇の実態」である。都立滝山病院において、多くは家族からも見捨てられた統合失調症などの入院患者は、看護者に嘲弄され、暴行され、苦痛を訴えればうるさいと縛られ、衰弱して死んでようやく退院できる。生活保護受給者も多いこうした患者たちは、虐待を知りながらも、こうした処遇の病院を「必要悪」とみなす地方自治体や保健所からも送り込まれているのだ。病院は生活保護受給者は入院費の取りはぐれがないので「歓迎」するという。厚労省も問われれば「プライヴァアシー」を楯にして個別事例の釈明には立ち入らず、空しい一般論を語るのみである。統合失調症はみずからの希望を語る能力も一切ないとされているのだろうか? 番組中やがて死を迎える高齢の患者は、弁護士に虐待を訴え、ここから出してほしいと泣きじゃくる。現代日本で最も完全に人権を奪われている人びとがまさにここにいる。なんという悲惨か。このような患者の棄民化は、滝山病院に限られないことも番組で明らかにされている。
 思うに、判断力を欠くとされる精神病者といえども、みずからの意向が表明されるかぎり、非情の家族や医師の判断がどうあれ、強制入院されるべきではない。日本で精神病者の人権が尊重される度合いは、おそらく、他の先進諸国くらべて遙かに低いだろう。
 ちなみに最近、ウクライナ戦争についても二つのすぐれたNHKスペシャルを見ることができた。ひとつは、開戦直後、欧米指導者たちの亡命の勧めを拒んでキーウイに留まり、勇気ある市民たちの自発的レジスタンスに励まされて抵抗戦に入ってゆくゼレンスキーら閣僚たちを描く「ウクライナ大統領府 緊迫の72時間」(2月26日)。「ウクライナはアメリカやNATOによってて空しい戦争を強いられている」という、一部「左翼」の判断の誤りを、この番組は教える。
 今ひとつは、「なんのため闘うのか」がわからないまま「肉片」としてウクライナに送り込まれたロシア兵たちの、刑務所より非人間的な扱い、その戦意喪失と数多い脱走、そしてポーランドなどで一部脱走兵がプーチン支配を拒むロシア人を組織し、対ロシア戦のためにウクライナに送ろうとする試みなどを描く「調査報告 ロシア軍 プーチンの軍隊で何が?」(2月28日 再放映)である。なお息づく一部ロシア人たちの感性が感銘ぶかい。ロシア軍の内部崩壊ほど、いま世界から待たれていることはない。

イギリス公務員50万人のストライキ(23年2月4日)

 2月1日、イギリスでは、学校教師10万人をふくむ多様な部門の公務員50万人ものストライキがあった。5000人以上のデモがウェストミンスターの官庁街をぎっしりと埋めた。学校の半分が休みになった。大英博物館もスタッフのストライキで休館となった。
 昨年来、イギリス各地では、年10%ほどの物価高騰に直面して、鉄道や地下鉄などの交通機関、郵便局、港湾、郵便局などの労働者、ゴミ収集などの現業公務員、空港地上スタッフ、教師、救急隊員、病院や大学の若手スタッフなどのストライキやピケが相次いだ。要求はほぼ10%の賃上げである。とくに衝撃的だったのは、12月15-16日における国営医療の看護師たちの大規模な、ときに労働組合機能も果たす「王立看護協会」始まって以来初のストライキだった。
 あえてさまざまの分野を列挙したのはほかでもない。この国のストは、地域、産業、職業ごとにきわめて分権的に始まり、その先駆的な行動が野火のように他の職場にに広がってゆくのが伝統だからだ。そこにはまた、労働者の生活を守るためにはひっきょうストライキしかないという、産業民主主義(端的には労働三権の行使)の不可欠性に対する断固たる確信が息づいている。思えばサッチャーは80年代半ば、10万人・1年間の炭坑大ストライキを「内部の敵」としてたたきつぶしたが、さまざまの分野で働く当時の坑夫の子や孫たちはなお、この「確信」をわがもとしているかにみえる。そして注目すべきことに、その思想は組織労働者だけのものではないようだ。BBCが伝えるサヴァンタ・コレムズの世論調査によれば、総じて国民の60%はこれらのストライキを支持している。看護師や教師のストライキへの支持はとくに高率であった。2月1日のTV報道のインタビューでも、デモ参加の教師たちはもとより、街頭の親や子どもたちも、ストライキの正当性を朗かに表明していた。
 この50万人ストライキについて、日本のマスメディアは、毎日新聞やTBSがわずかにふれるのみで、総じて無視している。その立場は、インフレに伴う生活苦を打開するストライキというものの意義を顧みないように誘導しているとさえ思える。イギリスのストは、いま話題とされている「春闘」で賃上げがどれほどになるかの問題と無関係だろうか?、まさにここに関わるのではないか。まえにも私が論じたことだが、日本ではいったい誰が賃上げするのか? 労働組合の行動なくしても「温情的」な政府や経営者が賃金を上げてくれるのか? ここまで産業民主主議の思想を忘却している「先進国」はない。この忘却は、残念ながらマスコミ界だけではなく、労働界にも、野党にも、革新論壇にも、私が日頃敬愛するFBの「お友だち」のなかにさえ浸透しているかにみえる。しかし、だからこそ私は、昨年末に書き下ろした、先駆的にサッチャーと闘ったレジェンド、「イギリス炭鉱ストライキ(1984-85)の群像」の刊行を模索し続けている。