1月の講演(2023年1月18日)

 厳冬の1月、久しぶりに講演が重なり、8日には四日市で「映画で男女共生社会をみる、その①」として、『家族を想うとき』『夜明けまでバス停で』『ノーマ・レイ』『スタンド・アップ』『ファクトリー・ウーマン』などを題材に女性と労働のかかわりについて語った。22日には「その②」女性と家族・家庭問題を論じる予定が控えている。15日には京都で「労働組合運動の現状と課題」について。90名ほどの方々に1時間半ほど、関西生コン労働組合の弾圧の要点を皮切りに、現代日本の労働組合運動の思想と営みへの徹底的な批判を展開した。久しぶりのなじみのテーマでの語りであり、こんな機会はもうないのではないかという思いもあって、いつもより「熱く」なった。好評であった。はじめの写真は、参加者のFBから頂いたもので、ちょっとピントは甘いけれど、めったに得られない臨場感ある映像、「怒れる老人」である。帰途の高速バスでは、この年齢ではもう体力的に限界だという思いと、まだしばらくはやれるかもという思いとに、こもごもにとらわれた。

京都キャンパス・プラザでの講演「労働運動の現状と課題」
その後の懇親会。主催者と希望者との歓談

今年の年賀状(23年1月1日)

2023年新春 明けましておめでとうございます!
昨年、体力や気力、感性や記憶力の衰えを嘆きながらも、私たちはともかく、映画や小旅行に癒やされながら、細々と社会に関わってきました。熊沢は後半、久しぶりに「書いておきたい」ことの執筆、まだ語れるテーマでのいくつかの講演にがんばりました。けれど今年85歳になる私たちはもう、危うい状況の日本では万事「時代遅れ」みたい。これからは、野心や期待から自由な本当の老後の日々を、いたわりあって過ごしてゆきます。そんなわけで、このような賀状は今年で最後とさせていただきます。
  幾谿も雪明かりのみ見つつ来ぬ(加藤楸邨)
               熊沢誠/滋子 

10月の奥只見湖で

2023年春闘に思うこと(23年3月16日)

 自動車、電機、重機械などの大企業の「春闘」で満額回答が相次いでいる。JAM幹部などはもう有頂天だが、それほど、それは寿ぐべきことだろうか。
 今に始まったことではない。かつて日産自動車では満額回答が慣例だった。そもそも組合の要求そのものが企業とのひそかな合意のもとでつくられていたからだ。今年も、組合が経営側の意向に抗して交渉でがんばったというよりは、欧米では考えられないことだが、要求額が企業側との事前調整が行われていたため、すんなりと「妥結」したのではないか?ストの構えなんてはじめからなかったというのは、もう野暮なことだろうか。もともと要求水準が低すぎる。今の4%の物価高では、たとえ定昇込み3.8%で収束しても実質賃金の上昇は見込めない。せめて10%くらいの要求が当然ではないか。
 連合や「識者」は、この満額回答が中小企業や非正規労働者の賃上げに波及することを期待している。しかり大企業正社員以外の労働者の賃上げこそが最重要の課題である。しかし、上の「期待」がほんものなら、連合傘下の大企業労組は、自社の取引先、とりわけ下請企業でのコストアップにみあう価格引き上げの容認をはっきり「要求」すべきであろう。そこで闘え。あるいは、いま真に意義ぶかい営み――非正規労働者を組織するいくつかの地域ユニオン・コミュニティユニオンが連帯して10%賃上げを求める直接行動を、財政的に、または組合員の動員をもって支援すべきである。それらができるか? できなければ、大手企業の春闘相場がどうあれ、実質賃金の確保は危うく、社会的な賃金格差と中小企業労働者と非正規労働者の構造化した低賃金は変わらないだろう。

NHKのすぐれたドキュメント(23年3月2日)

 ひごろNHKの報道番組はあまりにジャーナリズムの神髄であるはずの批判精神を欠いていて失望させられるばかりである。ついでに言うと、アナウンサーがさよならと手を振る、「まるっと!」なんてばからしくないか。けれども、NHKの調査報道・ドキュメントについてはなお、取材の広さと深さにおいて必見の作品も少なくないように思われる。
 例えば2月25日放映のETV特集「ルポ 死亡退院~精神医療 闇の実態」である。都立滝山病院において、多くは家族からも見捨てられた統合失調症などの入院患者は、看護者に嘲弄され、暴行され、苦痛を訴えればうるさいと縛られ、衰弱して死んでようやく退院できる。生活保護受給者も多いこうした患者たちは、虐待を知りながらも、こうした処遇の病院を「必要悪」とみなす地方自治体や保健所からも送り込まれているのだ。病院は生活保護受給者は入院費の取りはぐれがないので「歓迎」するという。厚労省も問われれば「プライヴァアシー」を楯にして個別事例の釈明には立ち入らず、空しい一般論を語るのみである。統合失調症はみずからの希望を語る能力も一切ないとされているのだろうか? 番組中やがて死を迎える高齢の患者は、弁護士に虐待を訴え、ここから出してほしいと泣きじゃくる。現代日本で最も完全に人権を奪われている人びとがまさにここにいる。なんという悲惨か。このような患者の棄民化は、滝山病院に限られないことも番組で明らかにされている。
 思うに、判断力を欠くとされる精神病者といえども、みずからの意向が表明されるかぎり、非情の家族や医師の判断がどうあれ、強制入院されるべきではない。日本で精神病者の人権が尊重される度合いは、おそらく、他の先進諸国くらべて遙かに低いだろう。
 ちなみに最近、ウクライナ戦争についても二つのすぐれたNHKスペシャルを見ることができた。ひとつは、開戦直後、欧米指導者たちの亡命の勧めを拒んでキーウイに留まり、勇気ある市民たちの自発的レジスタンスに励まされて抵抗戦に入ってゆくゼレンスキーら閣僚たちを描く「ウクライナ大統領府 緊迫の72時間」(2月26日)。「ウクライナはアメリカやNATOによってて空しい戦争を強いられている」という、一部「左翼」の判断の誤りを、この番組は教える。
 今ひとつは、「なんのため闘うのか」がわからないまま「肉片」としてウクライナに送り込まれたロシア兵たちの、刑務所より非人間的な扱い、その戦意喪失と数多い脱走、そしてポーランドなどで一部脱走兵がプーチン支配を拒むロシア人を組織し、対ロシア戦のためにウクライナに送ろうとする試みなどを描く「調査報告 ロシア軍 プーチンの軍隊で何が?」(2月28日 再放映)である。なお息づく一部ロシア人たちの感性が感銘ぶかい。ロシア軍の内部崩壊ほど、いま世界から待たれていることはない。

イギリス公務員50万人のストライキ(23年2月4日)

 2月1日、イギリスでは、学校教師10万人をふくむ多様な部門の公務員50万人ものストライキがあった。5000人以上のデモがウェストミンスターの官庁街をぎっしりと埋めた。学校の半分が休みになった。大英博物館もスタッフのストライキで休館となった。
 昨年来、イギリス各地では、年10%ほどの物価高騰に直面して、鉄道や地下鉄などの交通機関、郵便局、港湾、郵便局などの労働者、ゴミ収集などの現業公務員、空港地上スタッフ、教師、救急隊員、病院や大学の若手スタッフなどのストライキやピケが相次いだ。要求はほぼ10%の賃上げである。とくに衝撃的だったのは、12月15-16日における国営医療の看護師たちの大規模な、ときに労働組合機能も果たす「王立看護協会」始まって以来初のストライキだった。
 あえてさまざまの分野を列挙したのはほかでもない。この国のストは、地域、産業、職業ごとにきわめて分権的に始まり、その先駆的な行動が野火のように他の職場にに広がってゆくのが伝統だからだ。そこにはまた、労働者の生活を守るためにはひっきょうストライキしかないという、産業民主主義(端的には労働三権の行使)の不可欠性に対する断固たる確信が息づいている。思えばサッチャーは80年代半ば、10万人・1年間の炭坑大ストライキを「内部の敵」としてたたきつぶしたが、さまざまの分野で働く当時の坑夫の子や孫たちはなお、この「確信」をわがもとしているかにみえる。そして注目すべきことに、その思想は組織労働者だけのものではないようだ。BBCが伝えるサヴァンタ・コレムズの世論調査によれば、総じて国民の60%はこれらのストライキを支持している。看護師や教師のストライキへの支持はとくに高率であった。2月1日のTV報道のインタビューでも、デモ参加の教師たちはもとより、街頭の親や子どもたちも、ストライキの正当性を朗かに表明していた。
 この50万人ストライキについて、日本のマスメディアは、毎日新聞やTBSがわずかにふれるのみで、総じて無視している。その立場は、インフレに伴う生活苦を打開するストライキというものの意義を顧みないように誘導しているとさえ思える。イギリスのストは、いま話題とされている「春闘」で賃上げがどれほどになるかの問題と無関係だろうか?、まさにここに関わるのではないか。まえにも私が論じたことだが、日本ではいったい誰が賃上げするのか? 労働組合の行動なくしても「温情的」な政府や経営者が賃金を上げてくれるのか? ここまで産業民主主議の思想を忘却している「先進国」はない。この忘却は、残念ながらマスコミ界だけではなく、労働界にも、野党にも、革新論壇にも、私が日頃敬愛するFBの「お友だち」のなかにさえ浸透しているかにみえる。しかし、だからこそ私は、昨年末に書き下ろした、先駆的にサッチャーと闘ったレジェンド、「イギリス炭鉱ストライキ(1984-85)の群像」の刊行を模索し続けている。

20233年1月の映画、中島みゆき賛歌(1月25日)

 新年になって劇場でみた映画のうち、惹かれた作品は、順不同で①『非常宣言』(ハン・ジェリム、韓国)、②中島みゆき 劇場版ライヴ・ヒストリー2』、③ペルシャン・レッスン 戦場の教室』(ヴァディム・パールマン、ロシア・ドイツほか)、④『She Said その名を暴け』(マリア・シュライダー、US)の4本だった。
 ①は、ウィルス・自爆テロリストの侵入による、文句なしに終始おもしろい韓国の航空パニックもの。③は、ナチスの強制収容所で、ペルシャ人と偽って、ペルシャ贔屓のヒューマンなナチ将校にでたらめのペルシャ語を教えることで生き延びるユダヤ青年のサスペンスに満ちた物語。彼は終戦直後アメリカ軍の調べの際、収容者の名簿記録が焼却されているいるにもかかわらず、ペルシャ語をでっちあげるために用いて記憶し暗記している収容者4000人もの名前を次々に挙げる。そこが感動的だ。信じられないけれど事実にもとづくという。また④は、ハリウッドの大物プロデューサーの女優やスタッフへのあくなきセクハラを、口ごもる被害者の心をついに開いて実名証言の記事にする、NYタイムズのふたりの女性記者ミーガンとジョディの困難な取材を描く佳作。この不屈の行動が、グローバルな Me too運動の先駆けになったという。ミーガンを演じるキャリー・マリガンの疲労と心労、決意と気概こもごもの表情の豊かさが実に印象的である。
 中島みゆきの2004年、07年、12年、15年、そして最後2020年の「ラストツアー」の4コンサートでの15曲の歌唱を映像化する②には、やはりもっとも魅せられた。『銀の龍の背に乗って』や『命の別名』の凛としたメッセージの力強さ。『with』『ホームにて』『蕎麦屋』などに流れる比類ない優しさ。『化粧』に聴く自虐の底からなんとか立ち上がろうとする気力。そして、孤立と絶望のなかにあっても生まれてきたことへの人びとの祝福を思い起こせとよびかける『誕生』。阪神大震災のあと、通勤途上の瓦礫の間を歩きながら、私はいつもウォークマンでこの名曲を聴いていたものだ。
 中島みゆきは、切望や落ち込みや気力喪失を「けれども」で大きく転轍して、玲瓏たる歌唱のサビの展開のうちに、明るさ、勇気、希望のよびかけにつないでゆく。彼女の歌詞がしばしば命令形とるのも、この前半の暗くリアルの認識ゆえに実に自然なのだ。この映画では、こうしたみゆきの美質がもっとも明瞭にみてとれる、私の原点ともいうべき『ファイト!』がなかったことだけが心残りだった。
 一見してなお少女風の中島みゆきも首筋や目尻にわずかに老いがほのみえる。そして最後近くに例外的にはさまれるリハーサル風景での素顔のみゆきは、もう優しいお婆さんのようだ。1952年生まれの彼女は2020年にはすでに70歳近いということに突然気づかされる。それでも「ラストツアー」では、むしろ少女風の衣装で『誕生』を絶唱する。これが最後のコンサート映像なのだろうか。文字通り半世紀近く彼女の数え切れないほどの歌に励まされてきた私はそこになぜか、老いてもあえて若きを演じる、世阿弥のいう「華」を感じて胸がいっぱいになる。ありがとう、中島みゆき、なお命長かれ。

研究会「職場の人権」が甦る

2022年3月30日

 2022年3月26日、研究会「職場の人権」は、19年8月以来およそ2年半の冬眠を経て目覚め、大阪北浜の大阪経済大学の教室で、その再生記念シンポジウムを開くことができた。ハイブリット形式で、参加者は会場で20名あまり、オンラインで全国から約30名であった。司会は、この間、再興準備の中心だった伊藤大一(敬称略)、報告者は研究者3人(萩原久美子、本田一成、私)、それに労働運動の担い手4人(POSSE・総合サポートユニオンの坂倉昇平、全国建設運輸連帯労働組合関生支部の西山直洋、大阪全労協の竹林隆、サポートユニオンwith YOUの島野正道)である。
 テーマは<「職場の人権」の過去・現在・未来>であったが、主催者の狙いは、差別やハラスメントなど労働現場での人権抑圧も「個人の責任」とみなされて孤立のうちに打ちのめされがちな労働者が、居場所と相互扶助のなかまを見いだすことのできるような、さまざまの企業横断的な労働組合のありかたの模索にほかならなかった。

 今日の大学における信じがたいほどの民主主議の空洞化(萩原)、ゼンセンの画期的な労働協約拡張の営み(本田)、東京の若い専門職・サービス労働者へのおそるべきいじめ処遇の実態(坂倉)、いま権力の攻撃のさなかにある関生支部という組合のすぐれた特質(西山)、労働相談にうかがわれる絶えざる人権抑圧(竹林)、高校生に対する労働組合というものの不可欠性についてのねばりづよい語り(島野)など、報告はいずれも興味深く、質疑・討論は実に活発だった。私の「まとめ」発言はとりとめなかったけれど、強調したかったことは、ハラスメントという抑圧が以前にもましてあまりにも恒常化していることのほか、ユニオニストたちの組織形態や「系統」を異にする他の組合の活動に対する関心であった。たとえば、西山は「私たちの直接の雇用関係のない労働者への関生支部の働きかけ」はゼンセンの協約拡張と同じ営みと語っている。本田や竹林の東京の総合サポートユニオンはなぜそのような運動ができるかの質問も注目に値する。「労働者の人権」をベースにした、多様な労働運動の担い手たち相互の交流こそが、今もっとも必要なのだ。

 私ははじめに、1999年9月に発足した<「職場の人権」のこれまで>を反省を込めて報告した。発足時の問題意識は、【能力主義管理の浸透⇒労働条件決定の個人処遇化⇒受難の「個人責任視」⇒個人処遇に立ち入らない労働組合のありよう】という連鎖のくびきに閉じ込められて、いま労働現場の普通の労働者が日常的に人権の危機に痛感しているという認識である。注目したのは、一概に「非合法」とはいえない選別的な労務のありかたであり、それゆえ、労働現場の人権問題を克服する方途として重視したのは、産業民主主議・労働組合運動の復権であった。以降20年、泰山義雄らの不屈の事務作業もあって、私たちは224回の例会をもち、記録担当の笠井弘子の献身もあって、例会の報告と討論の内容を詳しく伝える107の会誌を残している。日本の労働の状況に関する、これは分厚いアーカイヴスということができよう。最盛期には全国で会員440名を数えたこの研究会も、19年夏には、人的・財政的な資源不足、あるいは企画の限界?などによって幕を閉じた。だが、例えばハラスメントの苦しみが労働者の最大の訴えに浮上している現在――その点では皮肉にも私たちの問題意識はある意味で「先駆的」であった――「職場の人権」はやはり再興されるべきだった。伊藤大一、笠井弘子、若村青児ら、IT技術にも長けたスタッフの工夫と努力が実り、ここに再興が実現したことは本当によろこばしい。
 私自身も、研究者と実践者が協同するこのユニークな研究会から学んだことははかりしれない。私の60代、70代はまさに「職場の人権」とともにあった。最大の友人たちもそこにいる。83歳になった今、これからの研究会の企画と運営は、再起を具体化させたメンバーの方々に自然に委ねられるだろう。またしばらく併用されるオンライン方式は、以前よりも遙かに地域的に広汎な人びとの関心を呼び起こすかもしれない。
 3月26日、喫茶店での歓談を終え、畏友、伊藤正純に送られて帰途、夜の近鉄特急に乗車したとき、深い疲れのうちに、ああ終わったという感慨に胸が満たされた。春が訪れている・・・。
  *『私の労働研究』堀之内出版、2015)所収の2012年秋の段階での「職場の人権」    の中間総括も参照

その24 2021年の収穫
 映画と読書のマイ・ベスト

 その1 日本映画 
なんという映画好きなのか、われながら驚く。とくに21年は、コロナ禍で外出のイヴェントが少なくなったこともあって、劇場観賞(たいていは2本をみる)、自宅でのTV録画とDVD、そのすべてをあわせると実に200本の作品にふれている。映画というものの魅惑は語るにつきないが、例年の慣例に従い、そのうちの新作に限って「マイベスト」、をあげてみる。世評とはかなり異なる偏りは、もういたしかたない。

 今年の邦画の新作では、昨年以上に収穫は乏しかった。わずかにあげれば、ほとんど順不同で次の4作である。いずれも映画の第一の魅力である「おもしろさ」にあふれている。

 ①護られなかった者たちへ(瀬々敬久+S)
 ②ヤクザと家族{藤井道人+S)
 ③空白(吉田恵輔+S)
 ④明日の食卓(瀬々敬久)

 これらはなによりも、社会的な視野をもつストーリーが充実していており、納得のうちに感動に誘われる。①は大震災後、温かい老婆(倍賞美津子)に慈しまれて成人したかつての孤児ふたり(佐藤健、清原佳那)による、病んだ老婆の生活保護獲得をめぐる非情の役所との闘いと、その果ての凄惨な犯罪への軌跡を描く。②は、シブイ風格の組長、彼に愛されたヤクザ(綾乃剛)、その愛人(尾野真千子)、その息子相互の切実なかかわりを時代の経過のなかで辿る異色のヤクザもの。③は万引きした娘を交通事故死に追いやったまじめなスーパーの店長(松坂桃李)を理不尽に追いつめる、父親(古田新太)の再生への心の変化をみつめる。④は同じ名前の息子をもつ階層さまざまの3組の母(菅野美穂、高畑充希、尾野真千子)と子らとの複雑な関係を巧みに描いて飽かせない。
 ほかには、敬愛する好きな作家の関わる2作品、坂元裕二シナリオの『花束みたいな恋をした』(土井裕泰)と、津村記久子原作の『君は永遠にそいつらより若い』(吉野竜平)に、やはり心惹かれるところがあった。いずれも現代日本の若い世代の愛と挫折、反発と順応の交錯がくっきりと切りとられている。 
 この後、「2021年の収穫」は、その1に次いで、外国映画、3分野に分けた読書という順序で綴ってゆく。アッピールや推薦というよりは、記憶をみずからに刻むためである。

 その2 外国映画
 2021年は、洋画についても、大きな社会的・歴史的な背景をもつ壮大な名作にはめぐりあわなかった。しかし次のような作品はやはり記憶に値する。ここでも3位以下は順不同であげる。国籍は物語の舞台、使用言語、主要出資国である。
 
①悪なき殺人(仏、ドミニク・モル)
②ファーザー(米、フロリアン・ゼレール監督・原作・脚本)
③モーリタニアン 黒塗りの記録(米・英、ケヴィン・マクドナルド)
④アンモナイトのめざめ(英、フランシス・リー)
⑤プロミッシング・ヤングウーマン(米、エメラルド・フェネル)
⑥アウシュヴィッツ・レポート(スロヴァキア、ペラル・ヘブヤク)
⑦金陵一三釵(中国、チャン・イーモウ)
⑧サムジン・カンパニー(韓国、イ・ジョンビル)

①は、アフリカからのネットを駆使した女性紹介詐欺がフランス中部の寒村の孤独な5人の男女を翻弄して、思いがけない謎の犯罪を引き起こす。悲惨でグロテスクながら傑出した物語。おもしろさは比類ないが、言いしれぬ寂寥の印象を残す。②は、現実と幻想の間を彷徨う認知症の老人(アンソニー・ホプキンス)が、現実と記憶、悲哀と安らぎの間を彷徨う姿を鋭くみつめる。この種の作品ではこれ以上は望めない名作といえよう。③では「人権派」弁護士(ジョディ・フォスター)と米軍の検察官(ベネディクト・カンパービッチ)が、テロリストとみなされたアフリカ人の冤罪をついに覆して感動的。④はイギリスの海岸で古生物の発掘に生きる孤独な女性(ケイト・ウィンスレット)とロンドンの中流の人妻(シャーシャ・ローナン)の愛と離反)のプロセスを辿る。なぜか心に沁みるものがある。⑤は医学生くずれの若い女性(キャリー・マリガン)が、友人の性暴力・自殺を契機に、男たちに捨て身の復讐をする、戦闘的フェミニズムの物語。カタルシスがある。⑥では、塗炭の困難を経てアウシュヴィッツから脱出し世界に地獄の状況を訴えた二人のスロヴァキアの青年の勇気の軌跡を追う。⑦は日本では劇場公開されなかった傑作。南京事件を背景に、アメリカ人の偽の牧師が日本軍に逮捕される女子学生たちを、同じ避難所にいた同数の娼婦たちの身代わりによって脱出させるという、心をうつ作品。 ⑧は、大企業の汚染水垂れ流しの公害を、3人の高卒OLが、それぞれの仕事の精通を武器に(ここがいい!)がみごとに告発しきる。サクセスストーリー的なエンディングが少し不満だが、なんといっても爽快である。

 このほか今年は、総じて外出自粛でもあり、また今春に『スクリーンに息づく愛しき人びと――映画に教えられた社会のみかた』という、社会派的な、また自分の精神形成史的な映画評論の拙著が刊行されることもあって、シャワーを浴びるように、これまでのマイベストに属するような名作・佳作を見続けた。くわしく紹介することはできないが、ここに21年に再見した作品を厳選して、タイトルのみあげる。
 
 邦画:野良犬/切腹/私が棄てた女/流れる/悪人
 洋画:さらばわが愛 覇王別姫/ギルバート・グレイブ/ドクトル・ジバゴ/
    愛を読む人/アパートの鍵貸します/旅芸人の記録/追憶/
     テルマ&ルイーズ/ アルジェの戦い/カティンの森/蜘蛛女のキス

 その3 小説・文芸評論
 もともと小説は大好きで、毎日のように開いているが、映像エンタメに時間をとられすぎて、21年には35冊ほどしか読めなかった。それでも印象的だった作品を摘記してみる。
 ①山田詠美『つみびと』(中公文庫)――最近は家庭の悲劇的な崩壊、親子間の軋轢や児童虐待などをしかるべくみつめる佳作が少なくない。林真理子『小説 8050』、町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』、湊かなえ『未来』などすべては、その凝視を経て新しい出会いによる再生を見いだす感動的な作品だ。しかし育児放棄してふたりの子を餓死させた事件を扱う山田作品は、その母、その子、その祖母の三視点で、それぞれの事情と内面を剔りぬいて、その深さのもたらす切実さの衝撃において他の追随を許さない。もう鈍感になった私も泣き出したいような気持に誘われた。
 ②ケイト・クイン<加藤洋子訳>『亡国のハントレス』(ハーパーBOOKS)――750ページを超える大作ながら、ほんとうにおもしろい。イギリスの戦場ジャーナリスト、社交的で数カ国語を操るアメリの元兵士、ソ連軍の爆撃手だった型破りの魅力的な女性という、いずれも愛する人を喪った三人が、逃亡してアメリカの中流家庭に潜り込んだナチの虐殺者の美女を追いつめる壮大な物語。それぞれの過酷な体験も克明に描かれてゆるみなく飽かせない。彼女の養女になるカメラマン志望の娘の勇気と英知もさわやかである。
 ③永田和宏『近代秀歌』/『現代秀歌』(いずれも岩波新書)――小説ではないが、俳句や短歌の好きな私には、日本を代表する歌人の永田が、近代と現代の秀歌を選び抜き、観賞のポイントを示唆するこの二著は、この上ない楽しい本だった。なじみの短歌に出会ってはうん、うんと頷き、未知の短歌に出会っては新しい宝石の発見にうれしくなる。

 蛇足をつけくわえる。恥ずかしながら今年はじめて谷崎潤一郎『細雪』(上・中・下、新潮文庫)を読み通した。物語の骨子は三女・雪子の挫折をくりかえす縁談話であるが、率直に言ってあの姉妹はいずれも、いささか奔放な末娘・妙子をさておけば、およそ理想とか夢とかには無縁の徹底的に卑俗なもののみかたの持ち主であり、誰も好きになれなかった。彼女らの美学も共感にほど遠い。だが、それでいて、その卑俗な佇まいの、改行も句読点もあまりない延々たる描写が、なぜだろう、おもしろくて、やめられないのだ。ところで私は、この大作の最後の最後の一文が、やっとまとまった縁談で上京する雪子の下痢が、「とうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた」――であることにとても興味をそそられる。この文豪はなぜ、こんな、呪詛の込められたようにさえみえるエンディングにしたのだろうか。

 その4 一般書&専門書
 読了した冊数としてはわずか36冊ほどにすぎないが、その分野は多岐にわたっている。紹介する方法に苦しむけれど、好著の多くも省略し、私の関心の深い分野ごとに、とくに示唆的だった良書10冊ほどを、ほとんど内容の検討や批判に到らない短い感想のみを加えて、順不同であげてみたいと思う。

(1)労働問題
①今野晴貴 賃労働の系譜学――フォーディズムからデジタル封建制へ(青土社 2021)②坂倉昇平 大人のいじめ(講談社現代新書 2021)
③竹信三恵子 賃金破壊――労働運動を「犯罪」にする国(旬報社 2021)

 ①は、「ブラック企業」論で知られる今野晴貴が、たゆまぬ労働相談活動の体験と内外の労働史研究の読みにもとづいて、日本の労働問題の「現在地」、企業別組合の外に生起するある新しいストライキの特徴、これからの労働組合の組織と戦略、「ポストキャピタリズムと労働の未来」までを一望に収める野心的な力作。読み応えがある。高い評価が予想されるだけに、ここでは労働研究の「先輩面をして」あえてもう少しつめてほしい疑問点を挙げる。a「底辺専門職」と雑業的手作業を「一般労働」として一括する把握。 b「ポスト資本主義」の諸概念の具体的なイメージ。cジョブ型ユニオニズムの「労働市場規制」と新しい社会をつくる「労働の質への介入」をつなぐ環は? この結合の期待にはいささか「力業の無理」がある、 ここはショップスチュワード運動・ワーカーズコントロ-ル論の史的な追跡が必要なのではないか。本書はとはいえ、過酷な現実を労働運動の理想につなぐ、久方ぶりに遭遇した雄勁な作品であった。
 ②は、現代日本のいじめを分析するまたとない好著。この書については、後の追記{2}を参照されたい。また③は、現代日本にあまりみられないまともな労働組合、全日建連帯労組・関生コン関生支部への、国家(警察・検察・裁判所)による常軌を逸した刑事弾圧の諸相を、現場観察、インタビュー、経過の回顧など通じ、具体的な事実に即して説得的に告発する。関生支部の活動の女性非正規労働者への恩恵を重視するのも、竹信の「関ナマ」論の特徴である。

(2)日本近代の思想史・精神史
①西成田豊 日本の近代化と民衆意識の変容――機械工の情念と行動(吉川弘文館 2021)
②大田英昭 日本社会主義思想史序説――明治国家への対抗思想(日本評論社、2021)

 いずれも定評ある研究者による、方法意識が明示されたうえでの手堅く克明な史的実証の著作。今後このテーマに分け入るとき誰しも避けることのできない書物といえよう。①の筆致は硬質だが、目配りは「鉄工」の日常の些事に及んでおもしろい。②からはこれまで私があまり知らなかった堺利彦、木下尚江、田添鉄二らの「社会主義」論の意義を教えられた。ただ初出論文の再編であるため、若干のの内容の重複が気になる。
 
(3)日本の現代史が民衆に負わせた過酷な体験
 いつも忘れずにいたいこの領域では、次の新旧二著が印象的だった。
①三上智恵 証言・ 沖縄スパイ戦史(集英社新書 2020)
②石牟礼道子 流民の都(大和書房、1973)/天の魚(筑摩書房 1974)

 三上は、戦時中に沖縄の人心収攬のために陸軍中野学校から派遣された二人の将校の硬軟さまざまの働きかけの軌跡と沖縄人の対応を、視力鮮やかな複眼をもってみつめて、ふかい感銘に誘う。いのちの重みを抱えて近代「東京」の資本権力に裸身で抗う水俣病の人びとの心にも行動にも寄り添い続けた石牟礼のエッセイ集は、日本の産業社会が踏みにじってきたものを照射して、今なおそれを刺し通す力きを失っていない。

(4)そのほかの分野
①アリス・ゴッフマン<二文字屋脩、岸上卓史訳> 逃亡者の社会学――アメリカの都市 に生きる黒人たち(亜紀書房2021)
②斎藤幸平 人新世の「資本論」(集英社新書、2020)

 欧米の社会学者によるFACTSのぎっしり詰まった叙述は、これまでも私の労働研究に
とって最大の恩師だった。①は労働研究ではないが、アメリカの都市貧民窟に息づく黒人たちの生態――とくに家族、友人、恋人、そして警察官との人間関係の光と陰を、参与観察の域を超え、若い白人の女性社会学者には困難なまでの生活体験の共有を通じて描きつくす。「犯罪」が彼らの生活にもつ決定的な意味などが鋭く抉り出されている。
 世評高い②について。後期マルクスの読み方を論じる学史的な部分に私はほとんど関心がない。気候危機を(一定)考慮したサスティナブルな安定成長論とも言うべきSDGsを「大衆のアヘン」と切り捨てる立論にもなお戸惑うところがある。だが、コミュニズムを「コモンの奪還・その市民営」とする思想はまぎれもなく正当であろう。斎藤は、「脱成長コミュニズムの柱」は、使用価値経済への転換、労働時間の短縮とワークシェア、画一的な分業の廃止・作業負担の平等なローテーション、「アソシェーション」による生産手段の共同管理・労働者による生産の意思決定、そして労働集約型のエッセンシャルワーク・ケア労働の尊重――をめざすべきだという。ひそかに労働者管理・自主管理社会主義の夢を抱いてきた私は、このまっとうな理想主義にふかい共感を禁じえない。先に紹介した今野晴貴の議論にも影響を与えていると思う。

 その5 追記(1)
 ボリュームが大きくなりすぎて書物の紹介の部分には書かなかったけれど、実のところ、私が2021年にかなりの時間を費やしたのは、1984年~翌年にかけてのイギリスの炭鉱大ストライキ関係の英書4冊ほどの読みであった。この問題に関する唯一の邦文文献である早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』(お茶の水書房 2010)なども再読した。
 イギリスの「炭鉱労働組合(NUM)のメンバーおよそ10万人は、国家の政治・警察・財政権力を動員したサッチャー政権の炭鉱閉鎖・人員削減の合理化プランに抗して、刑事弾圧と貧困に耐えて1年間のストライキを敢行している。エネルギー革命、政府側の弾圧の豊富な資源、それに内部の地域的分裂もあって、闘争は敗北する。それは80年代におけるグローバルな規模での新自由主義の支配、労働運動の後退の契機であった。この闘いは、とはいえ、坑夫たちの不屈の連帯ばかりでなく、他産業の労働者、家族やふつうの女たち、さらにはエコロジストや性的マイノリティに広がった共感と助け合いの心うつ記録を残したのだ。
  1980年代は、世界的にも日本でも、現代史の転換点だったと思う。確かに炭鉱とともに坑夫の労働者としての典型性は昔日のものとなり、ストライキやピケを辞さない労働運動は少なくなった。だが、労働者の個人化、労働組合離れ、その結果としての格差と貧困が進行する今、この大ストライキの体験から、例えば日本の働く人びとが汲みとるべきものはもうないのだろうか? 伝統とは死者にも投票権を与えること、今に生きる思想とは敗者の眼を忘れないこと。そうつぶやきながら、論文執筆や刊行のあてもないのに、私は炭坑夫とその家族たち苦闘をたどたどしく読み続けた。新しい年には、イギリス1984-85年の意義について、できるならばせめて長編のエッセイなりとも記したい。それができる気力と残存能力に恵まれたい。

 その6 追記(2)  坂倉昇平『大人のいじめ』(講談社現代新書)を推す
 老いの傲慢というべきか、企業社会のひずみを批判的に考察する書物にはある既視感を覚えてしまうことが多かった。そんな私とって、POSSEや総合サポートユニオンでの相談活動の豊富な経験をもつ坂倉昇平の近著『大人のいじめ』は、いくつかの点で新鮮で、あらたに教えられるところも多い好著だった。
 本書ではむろん、物流や情報、保育や介護など、さまざまな職場での凄惨なまでのいじめやハラスメントの実例がきわめて具体的に語られている。だが、立ち入った書評ではないこの小文では、本書の特徴的な美質と思われ、ふかく共感できる諸点についてのみ簡単に記すことにしたい。 
 ①坂倉はなによりも、職位上の上役による「ハラスメント」とはいくらか異なる、職場のなかま・同僚による「いじめ」の激増を、最近の傾向として重視し、その内容と心情を考察する。私は、ふつうの人びとが日常的に属する「界隈」を支配する<同調圧力>を現代日本のもっとも危険な「静かなファッシズ」ム」的な兆候とみなすけれも、職場こそがその典型であることがここに確認される。
 ②それでも坂倉は、それゆえにこそ、ハラスメントやいじめの克服には、法律や行政や「遵法」の企業労務は限界があり、ひっきょう労働者自身・労働組合の役割が不可欠であるとする。労働政策論の忘れがちなポイントである。
 ③類書はよく、深刻な労働問題の解決は労使にとってWIN-WINであると説く。坂倉はしかし、中間管理職のハラスメントや同僚のいじめの暗黙の承認が、経営にとっていくつかの「効用」があることを指摘し、この種の説得に靡かない。それは、今ではいじめの対象が社会的な範疇の「弱者」に限られず、企業による従業員の「能力」選別や「生産性」の個別評価を前提にして、同僚が自分だけは生き延びるために「自分とは違う」と排除する「不適格者」にまで広がっていることへの洞察が可能にするものにほかならない。
 現代日本の暗部に眼を背けないならば、坂倉昇平『大人のいじめ』を読まれたい。
     (2022年1月4日編集)

その23 連合幹部の政治的立場を問う

1

 現代日本の労働組合運動に対する私の根本的な批判の要点は、①非正規労働者の被差別的処遇の改善の傍観と、②いじめ・パワハラ・長時間労働、過重ノルマ、過労死など心身を疲弊させる労働現場の苦しみを<個人の受難>とみなすことによる、組合としての連帯的規制の放棄である。くわしくは、さしあたり動画欄の短い講演「存亡の危機に立つ労働組合運動」の参照を乞いたい。しかし、このエッセイで扱いたいのは、もっとトピカルなこと、芳野友子連合会長の最近のあまりに無定見な政治的発言である。周到な準備のない思いのままの叙述である。より専門的な分析と見解をお持ちの方には忌憚ない修正や批判をいただきたいと思う。
 芳野友子は、今日、「労働問題は多様」だから、各政党とは「是々非々」でつきあいたいと述べている。皮肉にもこれは組合の政党支持自由の原則に通じる考え方であり、それはそれで正しい。だが、むろん連合幹部の真意は、立憲・国民(民主党)支持を軸としながらも、場合によっては「新しい資本主義」を掲げる自民とも手を組む(事実、トヨタ労組はその方向に進んでいる)こと、そしてなによりも共産党を排除するということにほかならない。
 枢要のポイントは、政権への接近を前提にする、最大野党・立憲の共産党との絶縁の要求である。読売新聞オンライン(11.24)「総選挙総括」の報道によれば、芳野友子はすでに総選挙の敗因として、連合はもともと共産党とは相容れないのに、今回は立憲が共産に接近しすぎた?、共産党が「のさばって」「現場の」組合員に戸惑いが生まれ、立憲の選挙運動の「動員」に混乱があった――などと口走っている。端的に言えば、芳野の連合は決定的に右傾化しつつある。ファシズム化が共産党の排除にはじまるのは、戦前日本のみならず、世界的にもいくつかの実例があることをここで想起しておきたい。

 では、連合はなぜこれほど共産党の進出を怖れるのだろうか。そもそも共産派が「閣外からの限定共闘」を前提にして、市民連合を媒介にした立憲・共産・社民・れいわの共通要求のため、選挙運動に「入り込む」のはまったく自由ではないか。思うに連合は、共産派の「動員手当」なき総じて献身的な立憲支持の選挙運動が、労働者の共産党アレルギーを中和し、連合の「反共」の大前提を揺るぐことが心配なのだ。
 いや、そもそも共産党の綱領や基本政策が相容れないのだと連合幹部は主張するかもしれない。だが仮定として、立憲中心の政権が実現した暁に、新しい政府が、閣外協力の共産党に引きずられて、共産党の綱領にあるとみなされているという安保条約や自衛隊や天皇制などの廃棄・廃止に着手すると想定するのは、例えば政権交代を超える外交の一定の連続性という政治過程の常識ひとつに照らしても、あまりに非現実的であろう。自民党がなお貼りたがる「敵の出方次第では暴力革命」というレッテルにいたっては笑うほかない。共産党はすでに一党独裁を否定する議会主義の政党である。もし、非暴力の圧倒的な質量の大衆運動が議会を取り巻き、議会が大きな変革の決議を余儀なくされる場合、それは厳密な意味での暴力革命といえないだろう。それに幸か不幸か、今の共産党は体制変革をめざす労働運動や民衆運動に依拠しようとする思想性を備えてはいない。
 共産党について、現代史上いくつかの歪みや誤りを避けられなかった故事来歴をあげることはさしてむつかしくない。また私自身も、現在の共産党については、「ジェネレーション・レフト」的な立場から、基本的な綱領上の政策にも、民主集中制の運営にも注文をつけたいところがいくつかある。だが、かつて率直な碩学R・ド-アが個人的な会食の席で語ったことだが、共産党はいまもっともまじめな社会民主主義の政党だということができる。もちろん共産党も、来たるべきあらゆる政治勢力による息苦しい包囲網を突破するためには、人びとの伝統的な疑問や危惧のイメージを払拭するために、国内外のありかたに関わる大きな路線選択について、今こそ忌憚なく真意を明らかにすべきであろう。中国や北朝鮮の非難に留まってはならないのだ。しかしいずれにせよ、くりかえせば、私たちは民主主議の名において、連合幹部の鼓吹する反共主義・共産党排除を決してゆるしてはならないのである。

 芳野友子は、とはいえ、労働界の真の権力者ともいうべき民間大単産・大企業別組合のボスたちに祭り上げられた傀儡なのではないかという気もする。ボスたちは世論の反発を予想して自分ではいえない本音を、ボスたちの意向を忖度してしゃかりきに存在感を示そうとする初の女性会長に語らせようとしているかにみえる。事実、上にみた連合の総選挙総括は、旧総評系の官公労労働組合から当然、一定の反発が予想されるだろう。
 しかしそんな私の「忖度」よりも大切なことは、上のような芳野の反共主義・共産党排除は本当にふつうの組合員の共感を得ているのだろうかということである。
 この点は、はじめに述べた根本的な批判の②にも関わる。今日、同僚のハラスメントや過労死自殺について沈黙を守るのと同様に、職場のふつうの組合員は政党選択や個々の政治課題についても、つよい<同調圧力>のなかにあって、連合や当該組合の勧めるラインとは異なる見解を自由に表明することがためらわれる状況におかれているのではないだろうか。例えば共産党の言う、例えば政党支持の自由や、最低賃金1500円論は正しいとあえて語る従業員は、暗黙の統制によって職場で「そっち系」の者とみなされ、その後ある不利益をまぬかれないように思われる。そうして口をつぐむ。この「空気」が、手当を受けとって選挙運動には動員される労働者の自立的な政治意識を空洞化させているのだ。私がそう推定するのは、野党統一候補の主張が「共産より」で危険などというボスたちの表明が、市民でもある労働者の日常意識に内面的に定着しているとは思えないからである
 私はかねがね、連合や単産は、政党選択や野党各党の個々の具体的政策について、第三者機関による匿名性の保証されたアンケート調査を実施し、その結果を公表してほしいと主張してきた。それができないかぎり、芳野友子らの政治的発言は、表現の自由を拘束した上での「労働者大衆の見解」の僭称であり、今後、その線に沿う選挙活動の資金支出は組合費の不当な流用とさえいうことができる。     2021年11月25日記

その22 2020年のマイベスト 映画と読書

 (1)日本映画
コロナウィルスが猛威をふるう2020年。映画ファンの私は新作・旧作、劇場・自宅をふくめて実に165本ほどの映画をみている。外出自粛期の最大の恵みは、アンゲロプロス、フェリーニ、ベルトリッチ、D・リーン、今井正などの名作をふくむ、まさに「生涯ベスト」に属するような作品群のDVD観賞であった。そのうち『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ)、『真昼の暗黒』/『ここに泉あり』(今井正)などについては、国公労連の雑誌『KOKKO』連載の映画評論の場でくわしくその感銘を綴っている。しかしこのFB投稿では、劇場でみた新作に限ってベストを紹介することにしよう。 日本映画からはじめる。注目に値する佳作たちであるが、③以下はほとんど順不同である。

①スパイの妻(黒沢清)
②罪の声(土井裕彦)
③風の電話(諏訪敦彦)
④許された子どもたち(内藤瑛亮)
⑤糸(瀬々敬久)
⑥MOTHER マザー(大森立嗣)
⑦朝が来た(河瀬直美)

①は、戦時下の1940年、満州で目にした日本帝国の非道を知り、それを世界に公表しようと渡米を試みる貿易商(高橋一生)が、とまどいの末、彼に寄り添って生きようとする妻(蒼井優)ともどもスパイとみなされ、悲劇的な結末を迎える物語。歴史の闇をみつめる最近の邦画には稀にみる壮大な優品。女の心の変化を表現する蒼井優がすばらしい。②は子ども時代に犯罪に加担させられた人の生きてゆく苦しみを描いてかなしくも温かい。③は東北の津波であまりにも打ちのめされた少女が、人びととふれあうなかで成熟した女性として頭(こうべ)を上げるまでを描いて感動的。主演のモトーラ世里奈がとてもいい。④と⑥はともに、常軌を逸した「毒ママ」とママが大好きな息子との相互依存を描いて切実な佳作。⑥の長澤まさみは、評判の熱演ながら、なおいささか堅い感じ。⑥は高校時代に運命的に惹かれあった平成元年生まれの菅田将暉と小林菜奈が、時代の諸相に翻弄されて多くの失敗の体験を重ねた末ついに結ばれるというメロドラマながら、古今東西を通じたすぐれた恋愛映画が共有する、変化しながらも愛し続けるという特徴を備えている。

 (2)外国映画

①異端の鳥(バーツラス・マルホウル)――チェコ、ポーランド、ウクライナ 
②存在のない子供たち(ナディア・ラバキ)――レバノン
③パラサイト 半地下の家族(ポン・ジュノ)――韓国
④コリーニ事件(マルコ・クロイツパイントナー)――ドイツ
⑤オフィシアル・シークレット(ギャリン・フット)――イギリス
⑥カセットテープ・ダイアリーズ(グリンダ・チャーター)――イギリス
⑦レ・ミゼラブル(ラジ・リ)――フランス
⑧ジョジョ・ラビット(タイカ・ワイティティ)――アメリカ
⑨ジュデイ 虹の彼方に(ルパート・グールド)――イギリス
⑩スペシャルズ(エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ)――フランス

ミクロな視点で小粒の佳作からなる邦画にくらべて、外国映画のベスト作品群は、それそれの地域での歴史的悲劇や社会の格差構造への深くマクロな洞察を背景に人間の歓びや悲しみを鋭く描き出す。例え短文でもこの場ですべてを紹介し解説することは難しいので、上位作にのみふれると、①は戦時下の東欧、②は現代のアラブ世界を舞台に、少年の過酷な受難を徹底的に抉るまれにみる秀作。映像の美しさと対照的に、リアルでグロテスクな圧迫者たちのすさまじさ、ふつうの庶民たちが重ねる差別と排除の酷薄さに打ちのめされる。③は『ジョーカー』や『家族を想うとき』にくらべればいくらかけばけばしいけれども、韓国格差社会の様相を「おもしろく」語って飽かせない。④は、ナチスの残酷さをもういいだろうと黙過しようとする現代ドイツの法曹界を告発する感動的な物語。⑤は事実にもとづく。アメリカのイラク戦争に関わる極秘通信を傍受したイギリスのNASA勤務の女性が、その反戦思想ゆえにあえてジャーナリズムに暴露する。そこに始まる周囲の非難、拘束、行為の意味を考慮した裁判の末、ついに無罪になるまでのプロセスが描かれる。毅然たるヒロイン、キーナ・ナイトレイがさわやかに美しい。現代イギリスのパキスタン人、フランス・パリのアラブ人の苦境や成長、屈しない抵抗の姿を描く⑥と⑦も注目に値する。ああ、もっと語りたいけれど。・・・。

 (3)読書――社会・人文・歴史
 
 建設運輸連帯労組関生支部への刑事訴追裁判の鑑定意見書の執筆のために、夏秋には、多くの裁判資料ほかの精読に忙殺されたとはいえ、私の2020年の読書体験は貧弱だった。小説以外の分野で読了した冊数こそ38だったものの、そのうち労働研究の専門書はごく少なく、多くはルポや新書である。しかしともかく、テーマが意義深く、視角が新鮮、情報が豊富で学ぶところ多かった良書を摘記してみよう。

①デヴィッド・グレーバー<酒井隆史、芳賀達彦。森田和樹訳>
 『ブルシット・ジョブ  クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)
②森政稔『戦後「社会科学」の思想 丸山真男から新保守主義まで』(NHKブックス)
③片山夏子『福島原発作業員日誌 イチエフの眞実、9年間の記録』(朝日新聞出版)
④橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』(河出新書)
⑤山口慎太郎『「家族の幸せ」の経済学 データ分析でわかった結婚、出産、子育ての眞実』(光文社新書)
⑥本田由紀『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)
⑦藤野裕子『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)

 ①は稀にみる収穫であった。ブルシット・ジョブ(BJ)とは、本田由紀の巧みな紹介によれば、イ誰かに媚びへつらうだけの仕事。ロ誰かを脅したり騙したりする仕事、ハ組織の欠陥を取り繕う仕事、ニ形式的な書類をつくるだけの仕事、ホ誰かに仕事を割り振るだけの仕事だ。本書は、不思議に増えてゆくBJのくだらなさを、自分でもうんざりしている担当者からの詳細な聞き取りを通じて徹底的に暴露し、その由来を尋ねる。BJよりも遙かに労働条件の悪い真に不可欠な仕事の担い手たちへの共感が調査・分析の根底にある。私たちの常識を根底から揺るがせる、これはすばらしく示唆的な必読の大著といえよう。②はとても役に立つ平易な研究史。私にも懐かしいいくつかの書物の示唆を再認識させた。③は原発作業員の実態を報告する数多い文献中の白眉である。④は橋本ワールドになれた人にはいささか新味を欠くけれど、なんといっても「このテーマにはこの人」。研究の蓄積がゆるぎない信頼性を保証する。同じことは⑥についても言える。⑤は、左派、フェミニズムとは立場を異にしながら、統計の駆使によってクールに、常識的な女性への提言を一蹴する好著。また、テーマに惹かれて繙いた⑦は、近代史における民衆暴力の光と、直視すべき破壊的な暴力や排除という陰を描いている。読後感は私にはいささか苦い。
 ほかに文芸評論の分野では、当の作家の作品を広く読んでいるわけではないゆえ短評も難しけれど、①水溜真由美『堀田善衛 乱世を生きる』(ナカニシヤ出版)、②清真人『高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り』(藤原書店)、佐藤秀明『三島由紀夫 悲劇への欲動』(岩波新書)の3点が労作と感じられた。私の好きなジャンルであり、いずれも興味深く読むことができた。

(4)読書――小説

 いつも手放すことのなかった小説の読みも少なくなって、2020年には34冊ほどだった。そのなかでとくに惹かれた作品をいくつか紹介し推薦する。 

①川上未映子『夏物語』(文藝春秋)
②ジョゼ・サマラーゴ<雨沢泰訳>『白の闇』(河出文庫)
③『セレクション戦争と文学1 ヒロシマ・ナガサキ』(集英社文庫)
④『セレクション戦争と文学8 オキナワ 終わらぬ戦争』(集英社文庫)
⑤桐野夏生『日没』(岩波書店)
⑥『平家物語』(上)(中)(下)<中山義秀現代語訳>(河出文庫

 ①はイチオシ。中年近くセックスはいや、東京でひとり住まい、冴えない作家の夏子が、いらいらさせるほどあれこれと逡巡したのち人工受精で赤ちゃんを産むまでの物語。こう書けば身も蓋もないが、そこにいたるまでの間、大阪でのどん底の貧乏をともにした寛容な姉、クールな編集者、辛辣ながら情愛ゆたかなシングルマザーの流行作家、人工受精で生まれ実父を求める心やさしい男性、厳しいフェミニストのその恋人――そんなそれぞれに個性的な人びととふれあうようすや、度しがたい男のエゴイズムに遭遇してきた彼女らのドストエフスキー的な語りの迫力がリアルでどうにもおもしろい。女が人生の過程で選択を迫られる諸課題がいかに重く複雑なものか、その思いがずっしりと心に残る。
 ②は、すでにHPエッセイ(20年6月)ですでにふれているが、感染のすさまじさ、人びとの受難の耐えがたさ、そこから這い上る希望の歩み・・・などの描写においてまさにパンデミック文学の白眉といえよう。③と④は、ヒロシマ、ナガサキ、そしてオキナワに関する数多い秀作の短編集。とくに私の心をうつ作品は、③では大田洋子、林京子、井上光晴、後藤みなこ、小田実、④では長堂栄吉、大立正裕、吉田スエ子、日取眞俊、桐山襲の作品であった。⑥についてもいつかHPエッセイでふれたように、私はいくつもの現代語訳になじんだ「平家」好きで、物語は細部までわかっているが、なお、生々流転のなかにあるすべて固有名詞のある男たち、女たちの折々の立ち居振舞いに惹かれる。歌舞伎十八番のように私の古典である。⑤は、体制の「良識」に背反する女性作家が一方的に拘束され、虐待され、転向を迫られ、精神病者にされ、破滅するというこわい物語だ。あまりの「人権無視」に、グロテスクなおもしろさを超えて心がふさがってくる。これは現在のリアルではなく近未来のSFではある。しかし果たして「今」とは違うだろうか? 桐野夏生のそんなメッセージが耳の奥にきこえてくる。