日本政府は、このたび、150カ国もが熱く支持するパレスチナの国家の承認決議に加わらなかった。問題はいつ承認するかであり、今はそのときではないというらしい。そしてイスラエルがさらにこれを拒んでガザの殺戮を続けるならば、その時には加わるだろうと変に重々しく表明する。では、そんなときとは、今の蛮行以上の、何が起こったときなのか? 核兵器禁止条約についても同じだった。唯一の被曝国である日本は、核兵器保有国と非保有国とを「橋渡しする」との空語を弄し、加入も会議のオブザーバー参加も拒否しているのだ。しかしこれまでに、日本政府が核兵器禁止のためになにかイニシアティヴを発揮したことがあっただろうか?
いうまでもない、日本政府がこうした唾棄すべき欺瞞を続けるのは、とにかくアメリカの国策に逆らわないためである。アメリカが、トランプが怖いのだ。そしていま、自民党総裁選挙の候補者たちはすべて、対米関係を重視し、世界の人びとを苦しめるトランプの施策に完全に沈黙し、わずかでも批判を語ることは決してない。どこに政治家の理想があるのか。小泉進次郎は、首相になればすぐにトランプと会見に向かうと言うけれど、何か日本のためになることがトランプにいえるのだろうか? 誰も、なにも、期待しない。
投稿者「union5」のアーカイブ
2025年晩夏の闘い――滋子の大動脈弁狭窄症・入院・カテーテル手術の軌跡
●8月7日:2025年8月の試練
8月に入った。まずは先月に引き続く連日の異常な猛暑に迎えられる。5日には群馬県伊勢崎市で観測史上最高の41.8℃、14都市で40℃以上を記録した。クーラーの部屋に閉じ込められて読書や映画のDVDばかりの日々であるが、やはりはじめての夏ばてなのか、いつも眠く、けだるい感じをまぬかれない。
けれども、この8月には、妻・滋子が進行する大動脈弁狭窄症に対処するため、25日に四日市市立病院(CYH)に入院し、27日にカテーテル手術(TAVI)を受ける。私自身は、7月はじめに転倒して外傷性くも膜下出血などで緊急入院し、12日間の治療・安静静養を余儀なくされている。さいわいこれは全快し無罪放免となったとはいえ、次の妻の入院・TAVIこそは、私たちの余生のための闘いの正念場なのだ。私はあらためて、洗濯、掃除、ゴミ処理、その他もろもろの家事修行をはじめている。なによりも、猛暑のなか食欲が衰えがちなので、滋子がリーダー・私がヘルパーながら、昼食と夕食に食の進むような料理を用意するのに腐心する。こうして妻が疲れすぎないよう、入院・TAVIの準備が万全であるよう努める日々である。
それでも、もともとの高齢化現象――記憶力の衰え、バランスの危うさ、腕や指の筋力低下、長時間歩行の困難、難聴、転倒で一部破損した入れ歯の不具合など、要するに挙措のぎこちなさにうんざりさせられる。いつも捜しものと棚や引き出しの再整理に時間が過ぎる。もっとも、先週は、敬愛する大野章氏の講演会(8.2四日市)、関生労働組合弾圧を許さない東海の会(8.3名古屋)のイヴェントに参加して発言する機会があった。とくに多くのスタッフに病後の参加を危ぶまれていた名古屋の集会は、猛暑のため6600歩ほどの歩きでしたたかに疲れたけれど、京都から参加した旧友Kさんのエスコートもあって、なんとか「まとめの発言」まででき、回復をよろこばれた。
はまなすや今も沖には未来あり(中村草田男)
●8月15日:手術の説明と同意
14日午後、帰省した次男の透を加えて、市立四日市病院の循環器内科に赴く。主治医から、重症化している滋子の大動脈弁狭窄症について、カテーテル手術(TAVI)の時期的な必要性、作業プロセス、万一生じうるさまざまの合併症などについて実にくわしい説明があった。そのうえでさまざまの「同意書」に本人と私の署名を求められる。インフォームド・コンセントの徹底というのだろうか。今ではこの病気に対して、年に1万人以上、この病院だけでも約350人が受ける、死亡率も1%以下のTAVIであるが、その作業は細かく難しそうで不安ではある。けれども、妻の身体環境はTAVIに何も不都合がないこと、もし危険な合併症が起こりえてもそれは術後入院のうちに把握できることを質問で確かめて安堵する。「同意書」の正式の手続きや入院に際しての確認とかで待ち時間も多く、結局、半日仕事にはなって気疲れした。ちなみに今日の費用は160円のみだった。
18日に入院の詳細の説明、25日に入院、いくつかの検査を経て27日の朝にTAVI実施(1~2時間)。全身麻酔の朦朧状態もあって、家族が会えるのは昼過ぎだという。退院予定はいちおう9月3日。深刻な事態は起こらないと信じたい。ともあれ、私たちの余生のための闘いの本番はこうして始まった。
●8月27日:TAVIの成功。峠を超える
8月27日は、多くの方々が気にかけてくださり私ともども温かい励ましに恵まれた妻・滋子の大動脈弁狭窄症カテーテル手術(TAVI)。成功だった!
手術開始の9:00からの待機は、万々一のトラブルがどうしても心配でつらい3時間だった。いいこと・わるいことの想像、長続きしない読書、短い仮寝をなんどもくりかえす。ついに正午、術後に移された集中治療室(ICU)に呼ばれた。主治医の説明を要約する――予定通り経太腿カテーテル大動脈弁留置術を実施/術中に大きなトラブルなく、最終造影・経食道心臓エコーで人工弁周囲の漏れはわずか/現在、自己心拍は安定しており、ペーシング補助はしていないが、数日の経過観察が必要/輸血なし/全身麻酔からの覚醒は良好で、人工呼吸器は離脱。このぶんだと予定通り9月3日には退院できるでしょう・・・。滋子はもう意識が戻っていたが、さすがに顔色は悪く、物憂げで、ほぼ無口である。安堵に胸が熱くなる。よく頑張ったねと声をかける。
翌28日、10:30一般病室に戻ったと連絡があり、13:00に市立四日市病院(CYH)に赴いた。しかしこの病院の面会ルールがきびしく14:00にやっと妻と会う。やつれは残っており、点滴につながれてはいたが、手術前と同じ眼差しの滋子がいた。戻ってきたのだ!この歴史的な猛暑の夏、私たちの余生のための闘いはこうして峠を超えたかにみえる。
スナップは術後の滋子(8.28)、次男・透の好意による「壮行会」(なだ万)、その折の滋子、いま我が家で待つノウゼンカツラ(4枚)。




●9月1日:くらくらする猛暑のなか隔日ごとに手術後の妻に会いに出かける。昨日30日の段階で滋子はいっそう元通りの表情に戻っている。小説や新聞を読み、好きな「数独」もして、脚力の維持のため病棟の廊下を歩き回っているという。
ところがいいことばかりではない。1昨日から私のほうがなぜか突然、味覚と臭覚を失った。すべての食材がうまくなく、家でただでさえ味気ない簡単な調理を、外出時のレストランでリーズナブルなメニューを、完食するのがやりきれない。これはなぜか? 異常な猛暑のためか、高齢化のためか、このところ引き続いたストレスのためか。いつまで続くのか。どうすればいいのか。可能ならば、経験者のアドヴァイスを仰ぎたい。
スナップは9月1日の妻、市立四日市病院(2枚)。


●9月6日:妻の退院、その後
大動脈弁狭窄症のカテーテル手術を終え、術後の経過も良好だった妻・滋子が、10日間の入院ののち、9月3日午前、市立四日市病院(CYH)を退院した。親切な旧友K・Sのくルマで、菰野の自然薯レストランで昼食。長い間、味気ない病院食に絶えた滋子は「おいしい!」と完食した。13時前、我が家に着く。
それからほぼ3日、滋子は、やはりまだけだるい感じが残るらしく、よく眠っている。しかし外見でも挙措でも、以前のよう生気が甦りつつある。昨日など、ふたりでTV録画の映画『マグノリアの花たち』を楽しむことができた。私はといえば、妻の安静ファーストで、数日来の味覚・嗅覚障害(TSL)に悩みながらも、不器用ながら熱心な「主夫」として奮闘しようとしている。ある意味で「老老介護」のよう。TAVIは軽い施術といわれるが、それでも、全身麻酔・人工呼吸・生体弁を装着する血管内のカテーテル・その正確な位置を決める別のカテーテルなど、いくつもの装着・挿入を余儀なくされる。不安と拘束に妻はよく耐えたと思う。そしていま滋子は私の就床の傍らに戻ってきたのだ。
これまでふたりの生活に着地して、老夫婦の大きな試練だった<2025年晩夏の闘い>はこうしてようやく終わった。
忘れ残りの記(序)実母・愛子の死、父・章、俳句という絆
私の実母・愛子は、小学5年制の秋、1949(昭和24)年10月24日、37歳の若さで他界した。少年時代に体験したこの悲しみの記憶を、これからできれば折にふれて綴ってゆく私の生涯の「忘れ残り」の「序」として記したい。母・愛子(1912~49年)、父・章(1907~84年)の戦後の生活、なかんづく俳句で結ばれたふたりの絆のことなどである。
1907年、四日市の食用油の企業を営む素封家の末子として生まれた父・章は、東京の慶応大学に進学、31年、卒業して三菱商事に入社し、33年、三井銀行勤務の道家和三郎の長女、愛子と結婚する。そして37年、「熊沢製油」の取締役就任のため愛子、長男・裕とともに四日市に帰郷、川原町の三滝川添いに邸宅を構えた。41年には当時の米内内閣の価格統制違反に問われ会社を代表して下獄もするけれど、まずは安定した生活であった。その間、1938年には私が、41年には妹が生まれている。私たちはなにかと恵まれた「坊ちゃん」「嬢ちゃん」だった。
しかし、45年6月18日、四日市大空襲で「邸宅」はあっけなく全焼。私たち一家は一時、高角町の農家の離れに疎開する。都会育ちの母の苦労はひとしおであって、それが母の後の不健康の遠因だったという。玉音放送は正座して泣く母の背後で聞いた。なんの感慨もなかったが、6月以来本当に怖くなった空襲がなくなると思うとうれしかった。
私たちはここでも恵まれていて、ほどなく末広町に新築された住居で生活するようになる。記憶の中の母は、凛として、躾は優しくもきびしかった。勉強の指導は熱心で、また古今の童話の名作をよく読み聞かせてくれた。父は会社の生産の復興に懸命に働いていたが、一方では心のゆとりを求めて俳句づくりに夢中になった。そしてここからが俳句に結ばれたふたりの協力が始まる。1946年、父に次いで母も作句をはじめる。ふたりは、矢津羨魚の指導のもと、ホトトギス派の俳誌『砧』発行に尽力、そこには虚子、立子、青畝、素十、年尾、鶏二らも近詠を寄せて協力した。
父と母は「句敵」であったが、父よりも頭角を現したのは、もともと感情が細やかで感性の鋭敏な母(俳号、鮎女)だった。愛子は、三重県規模の「伊勢玉藻会」幹事を努め、父とともに48年4月、湯の山温泉で「砧会」「伊勢玉藻会」共同の虚子・立子歓迎大会(参加234名)、翌年には、桑名照源寺で両会主催の「虚子・立子歓迎句会」(参加60名)を成功させる。鮎女の俳句はとくに虚子をはじめ一門から高い評価を受け、それ以降、ホトトギス誌での入選の巻頭を飾るなど、東海俳壇に閨秀作家として屹立したのである。
だが、それまでもなにかと体調不良だった母はすでに業病に侵されていたのだ。桑名の俳句会から疲労困憊して帰宅した母は高熱と猛烈な頭痛に襲われた。四日市市立病院での診断は結核性脳膜炎で、直ちに入院となる。毎日、海老状に横たわり、まず背中から髄液をぬきストレプト・マイシンとビタミンを注射するという苦痛の治療である。50日を経て小康を得たかにみえ、希望して退院する。だが、その直後、また激しい頭痛と嘔吐に苦しみ、再度の入院。家を出るとき母は、しっかりお留守番してね、きっとよくなって帰るからと涙を流して私たちを抱きしめた。その時の父の苦渋の表情が忘れられない。
再入院後もマイシンの治療は続いた。60本ほどのマイシンは闇価格で通常の10倍~20倍だったという。会社の営業を担っていた父は社業や出張、3人の子の面倒をみる老いたメイドの家事の差配という繁忙の合間を縫って、日に3回、時には私たちを伴って病院に母を見舞った。それでも、病状は日毎に悪化し、薬害で胃腸の神経も麻痺して食事も喉を通らなくなった。母が私たちのもとへ帰ることはなかった。49年10月24日、永眠する。享年37歳。父は、私たちを引き寄せて、もう安らかに!子どもたちは私が・・・と叫ぶように言った。菊に埋もれた棺の中の母の額はしんしんと冷たかった。
母・愛子は、入院後も作句を続け、短い間にたくさんの佳句を残している。次のような俳句が、句会やホトトギス誌上で高浜虚子をはじめすぐれたな俳人たちに選ばれ、広く知られた代表作とされている。
・犬小屋は落花に遠く犬は留守(桑名句会:虚子)
・門内へ一歩たちまち花吹雪(立子)
・絵日記の犬が大きく夏休み(素十、青畝ら3人、)
・みとり女の昼寝は浅しすぐに用
・人柄は扇づかひのはしばしに
・濯ぎつつ月に両手をあそばせて(ホトトギス子規会、虚子)
けれども、このほかにも、熊沢鮎女遺句集『しらぎく』(自費出版、1955)には多くの佳句がある。この機会に、それらのいくつかをあえて主題ごとにわけてに紹介したいと思う。段落に即していえば、母の凛とした生の佇まい、しあわせだった日々の思い、私たちをふくむ子どもたちの情景と慈しみ、いつのことだったのか心に秘めた恋の思い出、そして晩年の疲れ・入院・病苦のかなしみ。それらがあらためて私の心に迫ってくる。
・いひわけはすまじと思ひ炭をつぐ
・髪梳いてきりりと束ね夏やせて
・さわやかに髪引きつめて厨ごと
・美しく老いたるひとや藤の宿
・思ふことなきしあはせや星祭
・夫と子の外は思はず月朧
・わがのぞみこの子にかけて初詣
・おやつにはまだ間がありて水中花
・ふところ手して兄の本のぞきゐる
・園児等に肝油ドロップ蝶の晝
・風邪の子の大きな瞳われを追う
・弟の兄のと決めて兜虫
・兜虫だけ起きている子供部屋
・コート着てやさしく吾子に留守のこと
・秋扇に秘めたる言葉なしとせず
・落葉路別るることは思ふまじ
・思ふてはならぬ人なり夕端居
・枯萩にうすぎぬほどの日ざしかな
・とびつきし犬にすげなく花疲れ
・糊のなき夫の浴衣や吾病みて
・病める目にカンナははげしすぎていや
・春愁のきわまれる時熱高く
・蝶よ来よ病室の窓雲ばかり
・かげろふのものにすがれるごとく病む
・髪洗うのぞみ悲しく捨てにけり
・音立てて夏帯しめる日はいつぞ
・病める手を組んでほどいて夏布団
・子ら来れば病を忘れ蛍草
・蚊右往左往仰臥の手には届かざる
・目をつぶる外なき静臥氷嚢下
・退院は帰省に似たり胸おどる
父・章の病身の妻を思いやる佳句もここに書き添えたい。
・病む妻の窓にこの虹かかれかし
・病む妻に夏帯仕立て来しを秘す
・秋立つを不治の病と知らで待つ
私は、亡き実母から、凛とした生きざまや鋭敏な文学的感性を受けつぐことができたといえるだろうか? 生涯にわたる私の俳句鑑賞への偏愛などはそうかもしれない。ともあれ、その後、父がほどなく迎えた継母・ゆき子の明るい情愛のもとで、当時は、中1の兄、小1だった妹とともに、私は少年期を経て成長してゆく。それからのことはいつ綴れるだろうか。
ここに復元して添えた写真は、『伊勢新聞』(2001.7.1&13)掲載の文学探訪問記事と古いアルバムからの転写である。また、上の伊勢新聞記事、鮎女遺句集『しらぎく』、父の遺した回顧エッセイ集『藻塩草』(1984年)を参考文献とした。




7月の12日間―私の緊急入院(7月18日)
7月6日早朝、まことに思いがけないできごとがあった。
早朝の散歩のとき、私は町屋川辺の石段からバランスを崩し転落、しばらく意識を失って、一緒にいた妻・滋子に付き添われ、桑名のQ病院のERセンターに搬送され、そのまま入院となる。外傷性くも膜下出血、脳震蕩、頭部と鼻骨などの外傷である。はじめは顔中に絆創膏でふためと見られぬ外貌。しかしすぐに意識ははっきりし、その後は重い頭痛、めまい、しびれなどに襲われることはなかった。たしかに最初の3日ほどは交互に読書と睡眠のくりかえす静養であったが、やがて私の感覚ではすべてが元通だと感じれれるようなると、つよく退院を望むようになる。だが、脳内出血は軽度でも2週間ほどの毎日の点滴(抗生物質と水分)と脳のレントゲンやCT検査による経過観察が不可欠だと言う主治医に叱られて、結局、12日間の不自由と鬱屈の入院を余儀なくされたのである。
私の病室は4日目には希望によって4人部屋に移ったが、あたかも野戦病院のようで、若い担当看護師やスタッフは毎日交替する。カーテンに囲まれて隔離性はよく、ベッドは上下可動制で備品も豊富だ。落ち着けるけれど、同室の患者はたとえば誤嚥性肺炎のような重症のようで、機材に囲まれて身動きできない姿を垣間見たり、呻きや泣き声の訴えを洩れ聞いたりした。主治医は毎朝、立ち寄って、一言残し、検査結果などを説明することなく、質問する暇もなく風のように立ち去るのが不満だった。
私がひたすら早期退院を望んだのは、7月12日ごろから主観的には「元通り」になって、1日にあわせて5パックほどの長時間の点滴が拘束的だったこともある。しかしなによりも、しんどいにはおそるべき粗食だった。あまり長期入院の経験がなかったので他の病院の例は知らないけれど、ここでは、鯖など魚の食材は稀、肉類は細片が混ぜられた「調理」という次第できわめて貧弱、調理も味などあってなきがごとく薄い。食事というよりは食餌だ。朝8時、正午、夜6時の食事は、お見舞いの滋子の持参する梅干し、ふりかけ、明太子、ソーセージ、みかんなどの助けを借りる「完食」への闘いであった。実につらかった。この日々を救うものは、次第に長時間読めるようになった、選びぬいて持ってきてもらった小説だった。吉田修一『国宝』(下)、千早茜『しろがねの栞』、ケイト・クイン『戦場のアリス』。それぞれが本当におもしろく、すべてが読了に到っている。
それまでの退院はかなわなかったが、私は7月14日に、妻の滋子の市立四日市病院での心臓外科の診察にぜひ同行したかった。妻は猛暑のなかほとんど毎日お見舞いに来てくれたが、本当のところ、大動脈弁狭窄症で大切な局面を迎えている滋子のほうが状況は深刻で、この日、7月4日(彼女の87歳の冴えない誕生日!)に受けたエコー検査、心臓・大動脈CT検査の結果にもとづいて、TAVI(カテーテル手術)の可否と日程が決まる予定だったのだ。東京の長男も、早々に病床に来てくれた福島の次男もその日は来られないとあって、私は信頼できる旧友のSにキーパーソンのように同行を依頼しところ、快諾を得た。病院の了承もとった。その日、夕刻、滋子とSは桑名の入院先まで報告に来てくれ、四日市病院のU医師が、TAVIは可能、8月25に入院、同じく27日にTAVIを決定したと聞いた。決心がついてなぜか安堵した。8.25から10日ほど、<2025年夏、二人の余生のための闘い、第2戦線>に入ろうと決心する。
当面の<第1戦線>、私の入院では、その後、読書とともに、滋子名義のスマホで親友たちとSNSを交わしたり、電話で回復状況を話したりした。多くの友人たちから励ましを受け、滋子への温かい配慮を聴くことができた。参院選の状況もいくらかは触れることができた。思えば日本人ファーストの排外主義的右派が堂々と跋扈する日本に今や成り下がったものだ。
そして、二度のレントゲンとCT検査の結果、やっと17日の退院が決まった。この静養期間だけでふとももが細くなった。努めて院内を日に3600歩ほどぐるぐる歩く。 ここの交代制の看護師などは総じて若い。ときに話し込んだりする青年もいるとはいえ、私のようなすでに軽症の者のありようにはまったく無関心である。
7月17日、滋子とともに、雨のなかタクシーで帰宅する。たばこも珈琲もバターもTVも映画もなく、なによりもいやな食事もない日はさしあたり終わった。驚いたのは、救急入院のためか、診療内容と請求書は後日、成行き観察の24日再審の日出されるとのことで今日の支払いはなしだった。設備はともかく、あの食餌でいくら請求されるのだろうか不安である。ともあれ、次なる第2戦線のためにも軍資金を用意しなければならない。
写真はすべて冴えないが、記憶のために。入院直前のノウゼンカツラ/7.4のひつまぶし/入院初期の面相/お見舞いの滋子/憂鬱な食事/快復期/退院前の読書の時。







憂鬱なウクライナの停戦交渉(8月14日)
大言壮語のトランプは、怪物プーチンに何を譲れとも具体的に要求していない。結局トランプはゼレンスキーに、あんた、もう闘う余力はないだろう、南部4洲の確保も、NATO・欧州と協調する安全保障もあきらめるほかないよと迫るのではないか。降伏せよということだ。それが歴史に刻む禍根はあまりにも深い。
素人の私が夢想するプロセスは、①即時停戦、②4洲からの両軍の撤兵、③国連機関など第三国による4洲の一時的統治と、そこでの住民の帰属希望投票の管理、④国境の画定・・・であるが、これらは畏友の専門家によってことごとく「ありえない」と一蹴された。おそらくその通りだろう。一言もない。だが、ではどのようにしてウクライナを蹂躙しないかたちで平和を達成するのか? 「ありうる」提言あれかし!
私たちはウクライナの人びとの多数が「自由かしからずんば死か」を選ぶ限りやはり、非道のロシアが侵略を放棄するまでウクライナの自衛戦を支援し続けるほかないのではないか。いずれにせよ、国際社会のあらゆるかたちでの身銭を切るロシア制裁が必要になる。
絶望的な参院選の結果(2025年7月21日)
参院選の結果はほとんど絶望的である。共産・社民の衰退、立憲の伸び悩み、とくに社民比例区の大椿裕子、京都の共産党・倉林明子が当選できなかったことが悲しい。
暗い予想にとらわれる。これまで自民反動分子が、まぎれもなく戦後の良識に縛られて言いたくても言えなかったことをはばかりなく主張する参政党は、やがて結局、神谷宗弊がそのわめくデマゴーグに熱狂する政治音痴たちを引き連れたかたちで、自民党と連立するに至るだろう。その流入は確実に自民党を右傾化・反動化させ、ひいては立憲や国民――両者の関係のゆくえもひとつの深刻な問題だが――と妥協を重ねざるをえない石破茂政権を瓦解させ、安倍晋三直系の極右、高市早苗を党首に迎えるかもしれない。本当の反動が権力を握り、リベラル・左派を思想的に駆逐しかねない・・・。
私たちの国でも、遅まきながら超党派の左派・リベラル連合の構築、古いテキストでは「反ファシズム統一戦線」が必要になるのではないか。
あいかわらずオールドレフトの素人談義、お許しあれ。
酷暑に閉じ込められて(2025年8月21日)
ごく最近、わずかに緩和されたように思われるが、この観測史上最高と言われるこの夏の酷暑には正直まいっている。午前6時台から40分ほど散歩するだけがやっとで、日中4000歩も歩けばなんとなく足取りは心許なく、基本的に外出はかなわない。けだるく食欲がいまひとつ。必要な四日市への病院通い、それと同時の買物、夕方1時間にかぎりの庭の草取り・枝払いのほかは、クーラーの部屋に閉じ込って、妻の25日の入院と27日のカテーテル手術(TAVI)を待つのみの日々である。萎縮している。憂鬱で、冴えない。
しかし、それだけにこの間、わりとよく本が読め、DVDですぐれた映画を再見することができた。いずれ内容紹介と「推す」理由を記したいと思う。しかし今はその気力も余裕もなく、ここでは厳選した作品のタイトルとランクだけをメモするに留める。書物では、いずれも内容が豊富かつクリアー、叙述スタンスにも共感でき、結局「おもしろい」名著または好著であり、映画では、いずれもサスペンスに冨み、リアルで切実な悲しみに満ち、最後にはかすかな光を感じて、あらためて感銘を禁じえなかった作品である。
<一般書>
①林博史『沖縄戦――なぜ20万人が犠牲になったのか』集英社
②鄭玹汀『木下尚江 その生涯と思想』平凡社
③ジョセフ・E・ステグリッツ<山田美明訳>『資本主義と自由』 東洋経済新報社
④今野晴樹『会社は社員を二度殺す――過労死問題の闇に迫る』(文春新書)
<小説>
①桐野夏生『グロテスク(上)(下)』文春文庫(2024年・原著03年)
②ケイト・クイン<加藤洋子訳>『 戦場のアリス』ハーパーBOOKS
③吉田修一『国宝(上)(下)』朝日文庫(初版2021年)
<日本映画>
①ヒミズ(フィルムパートナーズ・2011)園子温(+脚本)、主演:染谷将太、二階堂ふみ
②ひろしま(53.日教組プロ、1953)関川秀雄、脚本:八木保太郎、主演:岡田英次、山田五十鈴、加藤嘉、月丘夢路
③放浪記(宝塚・1962)成瀬巳喜男、原作:林芙美子、脚本:井手敏郎、田中澄江、主演:高峰秀子、室田明、加藤大介
<外国映画>
①善き人のためのソナタ(独・2006))フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク(+脚本)、主演:ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ゲッデック
②ジョーカー(米.2019) トッド・フィリップス(+脚本)、主演:ホアキン・フェニックス
③ドキュメント・灰となっても(香港、英・2013年)アラン・ラウ(+撮影&編集) *この項唯一の劇場観賞
④日の名残り(英、US・1994) ジェームズ・アイヴォリー、原作:カズオ・イシグロ、主演:アンソニー・ホプキンズ、エマ・トンプソン
⑤バベットの晩餐会(87デンマーク・1987)ガブリエル・アクセル(+脚本)、原作:アイザック・ディネーセン、主演:ステファーヌ・オードラン、ビビ・アンデルセン
⑥別離(イラン、2011)アスガル・ファルハーディ(+脚本)、主演:ベイマン・モアディ、レイラ・ハタミ、シャファフ・ホセイン、サレー・バヤト
沖縄慰霊の日に思うこと(2025年6月27日)
1945年4月~6月の沖縄戦の戦没者は、沖縄県の推定では、米軍1.25万人、沖縄出身の軍人・軍属2.83万人(うち大半は民間人)、他都道府県出身の日本軍6.59万人、そして一般県民9.4万人である。一方、定説では、沖縄で約20万人、県民の約1/4が命を失っている。この史上まれにみる痛恨の悲惨事にふれて、私たちが死者たちを哀悼し、平和の希求こそ思想の原点と心定めるのはまことに自然である。
とはいえ、この悲惨事をひとえに日米間の戦争のゆえとし、もう決して戦争はしない・してほしくないと願って「終わる」(?)良識に、私はかねてからつよい違和感を覚えてきた。沖縄戦では、ほんとうはこれほど多数の沖縄人が死ぬことはなかったのだという思いを拭いきれないからである。主として80年代以降の克明な体験ヒアリングが明らかににしたことながら、国体護持のイデオロギーとご都合主義の戦局観に駆動された中央・地方の政治権力、教師たち、そしてもとよりおよそ人命を顧みない日本軍、時流にまったく無批判だったマスコミなど・・・の合力が、沖縄を本土の捨て石とする差別感を媒介にして、沖縄人にあまりに過酷な犠牲を強いたのだ。
無残なエピソードは枚挙に暇がない。住民からの食糧や労役の容赦ない調達、民間人の軍属への編入、少年の鉄血勤皇隊や少女のひめゆり部隊への動員、多くの餓死や病死を招いた食糧が不足しマラリアに汚染された地域への強制疎開、不確かなスパイ疑惑による処刑・・・。軍は住民を引き連れて明日なき後退戦を試み、ガマが狭ければ「帝国軍人」優先で民間人を砲火のもとに追い出した。なによりも、軍は、みずからの中国侵略体験から、捕虜になれば女は強姦、男は処刑か奴隷労働と声高に訓示して、「生きて俘虜の辱めを受けず」の戦陣訓を民間人にも強いて、最後まで降伏を許さなかった。この「降伏許さず」の罪ははかりしれない。そして挙句の果ては、各人に手榴弾を配って「集団自殺」を命令したのだ。家族を手にかけるまでに追いつめられた者にいくらかの自発性があったにせよ、その自発性は、日本軍の暴力的強制を前提にすればそれを重視することはできない。要するに日本の軍権力は、多くの沖縄民衆を、自死させ、あるいは少なくとも間接的には米軍に殺させたのである。それらはまぎれもなく戦争犯罪ということができる。
感銘ぶかいことに、投降は許さずと怒鳴る日本軍指揮官がいなかったガマ、ハワイ移民の体験などから米軍は捕虜は殺さないと予測した者がオピニオンリーダーになったガマなどでは、多くの村民が投降して生き延びることができた。研究者たちの沖縄戦体験者へのくわしいヒアリングは、きびしい状況下でも、なんとか人命を守ろうとした教師や医師や故老の佇まい、なんとか自力で生き延びた人びとの懸命の姿を伝えている。そこにこそ戦後の平和運動につながる精神がある。ともあれ、くりかえしいえば、ここで、このとき、これほど多くの沖縄人が死ぬことはなかったのである。
陸軍第32軍司令官・牛島満は、30年にわたって沖縄戦における彼の役割を反省的に検証し続ける孫の教師・牛島貞満の語るところ、要旨およそ、祖父は「天皇への忠誠心だけあって、兵士や沖縄住民の命を省みることはなかった」。牛島は6月19日、「最後の一兵まで徹底抗戦し、悠久の大義に生きよ」と最後の命令を下し、みずからは23日、参謀長・長勇とともに自決した。防衛庁周辺では今でも「帝国軍人の鑑」と崇められていると聞くが、思えば、なんという視野狭窄、無責任、単細胞の愚かな将軍だろうか。
歴史に「もし」と問うことはできないかもしれないけれど、牛島満が、5月22日に首里からの南部撤退などを決定せずに、そのとき米軍に降伏し、みずから捕虜になって、兵士、住民の命を乞うことがあれば、どれほど膨大な人の命が救われただろうか。古来、戦局われに利あらずならば、白旗を掲げるのがすぐれた軍人というものではないか。また、たとえ日本軍は闘い続けるとしても,一定の地域を非武装地帯に設定して住民をそこに避難させ米軍に通告する(この場合、住民は抵抗を受けず進駐する米軍の保護下に入る)という選択もあったはずである(林博史『沖縄戦――なぜ20万人が犠牲になったのか』302頁)。だが、現実には、日本軍は民間人を、軍属、予備軍、労役者として引き連れて絶望的な抗戦を続け、屍の山を築いた。牛島の自決以後でさえ、彼の命令ゆえに必死に逃げ惑う人びとの悲劇は続いたのである。摩文仁の戦没碑に、牛島の名はみんなと同じ大きさの字で刻まれているけれど、彼の死は無名・無辜の人びとの死とひとしいものとして埋もれさせてはならない。
本当に悲劇をくりかえさないためには、戦争そのものとむごたらしい犠牲とを直結することをやめ、それほどまでに到らずともよかったはずの死傷をもたらした政府や軍隊の直接的な権力行使の責任をどこまでも追及すること――次世代の私たちにはその責務がある。そこを回避して、直接の権力を行使した者たちに寛容に、ただ平和を願うだけならば、主体的で強靱な反戦の思想と行動は生まれないのだ。沖縄の人びとの一角にはやはりなお、「本土」の沖縄への一般的な関心とかつての死者たちへの哀悼を超える、上のような質をもつ思想と行動の息吹きがある。
*カットはシャガール「戦争」(1964~66年)

「支持政党なし」の怖さ(2025年6月20日)
およそ選挙に際しての支持政党を問うアンケート調査で、いつもて最大多数を占めるのは「支持政党なし」の「無党派」層である。そこで、各政党は、区々たる支持率の変動に一喜一憂するのではなく、この無党派層の生活上の願いに応えるような政策づくりにこそ注力すべきだというのが、たいてい「識者」のアドヴァイスになる。
それはそうかもしれないけれど、アドヴァイスの前提としての無党派層へのある種の寛容な理解に、私は違和感がある。そもそも、無党派層の回答者のうち、自分のニーズを各政党の政策とすりあわせて検討したうえで、支持できる政党・候補者なしと結論する人びとはきわめて少数であろう。だが、この場合でも、議会制のもとでの選挙では、どの政党にも全面的には支持できないとはいえ、それでもよりましと思われる政党に一票を投ずるべきなのだ。それがまともな市民のつとめといってよい。
しかし、より深刻なことには、無党派層の大半はおそらく、上述の<熟考⇒結果的棄権>派ではなく、はじめから自分をふくむ人びとの生活や情念に深く関わる政治というものにまったく無関心で、およそ両者の関係性を考えたこともないという大グループであろう。体制や政治、ひいては戦争の危機や人権の蹂躙などの現実を意識の外において日常を送ることができるのは、古来、庶民の幸せの証拠だったかもしれない。しかし、現時点の日本では、庶民の生活の大枠はも安泰ではない。このまま事態が推移すれば、明日の世界はどうなるだろうか? 彼ら、彼女らは、棄権ならまだいいが、たまたま選挙に出かけて、政策の方向なんかはわからないが、NETではなんかおもろそうと感じて、冷笑的でたぶん反動的なポピュリスト政党に投票するかもしれない。
私のそんな杞憂は、電車では10人9人が、社内の人びとをいっさい無視してスマホから顔を上げない光景からも来ている。ちなみにあのチャップリンの母親は、地下鉄でいつも、出会うひとの佇まいや表情から、その喜びや苦しみや悩みを推しはかって幼いチャップリンに語り、よく見ておくんだよと諭したというけれど。
マリーナ・オフシャンニコワのこと (2025年5月18日)
マリーナ・オフシャンニコワ。ご記憶だろうか、2022年3月14日21時、ロシア国営放送第一チャンネルのニュース番組で、局のプロデューサーだったその女性マリーナは、突然アナウンサーの背後にあらわれ、「No War 戦争をやめて。プロパガンダを信じないで。あなたたちは騙されている」という手書きのポスターを掲げたのだ。
世界に公開されたこの映像は6秒間で中断され、ネットに広がった動画は直ちにことごとく削除された。しかしマリーナは、すでに自身のSNSにこのように発信していた――今ウクライナで起きていることは犯罪です。そしてロシアは侵略国です。・・・私はこの数年間、クレムリンのプロパガンダを行いながら第一チャンネルで働いてきました。今はこのことがとても恥ずかしい。テレビの画面から嘘を伝えさせたことが恥ずかしい。ロシアの人びとをゾンビ化させたことが恥ずかしい。こうしたことがすべて始まった2014年(クリミア占領)に、私たちは黙っていました。クレムリンがナヴァリヌイに毒を盛ったときも、私たちはデモに出ませんでした。・・・この非人間的な体制をただ黙って見ているだけでした。・・・
マリーナは拘束され、職を失った。彼女の息子は、これまでの生活を台無しにしたとして彼女を非難したという。マリーナは、4月からドイツの新聞のフリーランサー・ジャーナリストの職を得たが、7月には裁判のためロシアに帰国し、ロシア軍の信頼を失墜させたとして5万ルーブルの罰金を科せられる。しかし驚くべきことに、その間、彼女は、権力の中枢クレムリン近くで、ウクライナで殺された子どもたちの写真をつけたプラカードを手に、ひとりで反戦キャンペーンを実行している。252人の子どもたちが殺された、あと何人の子どもを殺せばすむのか、プーチンは人殺しだ、と。もちろんこれも虚偽によってロシアを貶める行動とされ、マリーナは自宅軟禁される。けれども、その後マリーナは娘とともについにフランスに亡命するのである。
23年10月、欠席裁判は、マリーナに8年半の実刑判決を下した。私が胸をつかれるのは、彼女の母親、息子、そして元夫が、検察側の証人として出廷した事実だ。元夫は、マリーナの親権を剥奪する訴訟を起こし、娘の捜索願いも出している。ロシアの世論は、肉親さえもマリーナから引き離したのだ。
今パリで娘と暮らす47歳のマリーナは、23年にドイツで出版した「自伝的フィクション」のエピローグに次のように書いている。
「ときどき私は、娘をこんな試練に遭わせてしまったことで自分を責めることがある。・・・慣れ親しんだ心地よい家庭生活を守るためには、何百万人ものロシア人がそうしているように、頭を砂の中に突っ込み、なにも恐ろしいことなど起きていないようなふりをした方が楽だったのではないかと思う。/しかし沈黙は犯罪に加担することだ。ウクライナの街にロシアの爆弾が降り注ぐ時、何もしないで黙っていることはできなかった。・・・」
マリーナ・オフシャンニコワは、つよい倫理的衝迫に突き動かされ信じられないほどの勇気を発揮して、私たちに希望の灯りを贈った。これまでもあったように、彼女がロシアの権力に暗殺されたりすることはないだろうか。命長かれ! その娘が母を誇りに思うことあれかし! そう祈りたいと切に思う。
以上の記述は、事実経過も発言も、まったく私見なく、全面的に高柳聡子『ロシア 女たちの反体制運動』(集英社新書)の記述そのままである。ちなみにこの本は、帝政時代、1917年革命期、スターリン時代、その後、プーチン政権期を通して、平和と人権、性差別反対などに身を投じたおよそ20人の女性たちとそのグループの系譜を追う、類書を見ない感銘ぶかい好著である。一読されたい。
写真は名高いイコン一枚のほかは2017年にロシアを訪問中カメラに収めた平凡な人びとの映像である。何も恐ろしいことなど起こっていないかのように日常を過ごすことでは、人びとはどこでも同じというべきか。




