マリーナ・オフシャンニコワのこと     (2025年5月18日)

マイ・アイデンティティ2025年     (2025年5月8日)

 もう数年も以前、故中岡哲郎先生の薫陶を受けた研究者たちのパーティで、妻の滋子が「私の唯一のアイデンティティは熊沢誠の妻であることで・・・」と自己紹介したことがある。そのとき私は、ああ私はこんなにも滋子の人生を「占有」してきたのだとふりかえり、言いようのない忸怩たる思いに胸を衝かれたものだ。
 もっとも、私は60年にわたって一途に労働研究に没頭し、文庫版・新書をふくめ28冊の著書を刊行したけれど、その間いつも、愛妻家であり子煩悩の父親ではあった。膨大なアルバムには家族との楽しい旅、行楽、屈託のないくつろぎの映像に溢れている。とくに息子たちが社会のきびしい現実にふれるまでの80年代末頃までは、これがいつまでも続けばいいと希うほどの父親史の黄金時代だった。わけても、1979年のイギリス留学後と、長男が大学3年、次男が大学1年の1987年に敢行した、いずれも1ヵ月にわたる4人のヨーロッパ旅行は家族史の忘れがい画期だった。思えば1962年の結婚このかた、滋子とはいつも一緒だった。踏査や学会もあわせて63回の海外旅行のうち、53回は妻が同行している。今でもほとんど日常化している劇場と在宅DVDで観賞する映画も、すべて一緒に見ている。数多の小説の読書体験もかなり共通する。一方、滋子は私の研究についても控えめなヘルパーであり、草稿の最初の読者であり校正者でもあった。

 それでも、私が性別役割分業という慣行のなかにぬくぬくとしてきたことは間違いない。妻・滋子はいっさいの家事・育児の担い手だった。ある親しいフェミニストから「あの奥様がいなかったらあなたの業績は半分ぐらいだったかも・・・」と言われたこともある。滋子は「精鋭」の専業主婦だった。大学のゼミ卒業生、「職場の人権」のなかまなどときに10人もの来訪者に対しても、彼女は万全の接待に滞りなく、楽しいサロンを用意した。ふたりの息子ばかりではない、滋子は家事はなにもできない研究ひとすじの私も成熟させたのだ。ふと思うに、忍耐づよい彼女の心中には、あるいはこの性別役割分業にあるわだかまりがあったかもしれない。だが、妻がそのことをかこち嘆くことは決してなく、またこれからもないだろう。
 私は研究史の初期から分業構造への労働者の配分という視点から女性に深い関心を寄せ、80年代半ばの戦後の女性労働者の歩みの考察を経て、2000年には『女性労働と企業社会』(岩波新書)を著している。フェミニストのきびしい眼は、私の女性労働分析にその個人生活の体験に影響されたある欠落点を見いだすかもしれない。しかし私はこんな確信を一度も手放したことはない――女性労働の凝視なくして労働研究はついに虚妄に終わること。雇用(稼得)労働と家事をふくめて女性がもっぱら担当しているケア労働とは、社会的にまったく等価であること。今後の日本社会の生きやすさ・生きがたさは、家庭の内と外の双方にわたる広義ケアワークの評価と処遇の安定いかんに決定的に左右されるだろう。そうした視点はそしておそらく、私が妻・滋子から受けてきたケアの尊厳の認識に裏打ちされている。

 2025年の現在、同年齢の私たちは86歳で、文字通り二人三脚、相互ケアの日々である。
 記憶が遠のく老いのみじめさや体力の著しい衰えが痛感される。私のほうは、補聴器に上下の義歯、右膝の痛み、手指で物をつかむ力の弱化、挙措の鈍重、とくに腰を落として座り込んだ姿勢から立ち上がるのに難渋する。そして妻はといえば、私以上に記憶力が衰え、ときどき、私もそうだよと慰めはするけれど、大切なことのあまりの忘却に驚かされる。それに心臓弁膜症に起因する不整脈があり、胸の動悸も起こる。この6月はじめにはCT検査の結果の診断を受ける。おそらくカテーテル施術の見通しである。かつての「精鋭」主婦も、家計関係の書類整理や周到な食事準備など、広義の家事の能力発揮に滞りを見せている。
 それでも、妻はまずは病身でなく、庭の草抜きなど筋肉仕事では私よりはるかに持続力がある。なによりも日常の家事の主担当者であることにやはり変わりない。それでも当然、不慣れながら私は家事担当の範囲を徐々に広げてはいる。痛感するのは、じつに多様な家事というものに必要とされる、ときに過剰では?と思われもする細かい配慮だ。あまり些事を記すのもどうかと思われるが、ともあれ書類や食品の整理、物の断捨離、再生ゴミの束ね、窓硝子拭き、汚れた食器の洗いなどは主として私の仕事だ。よく献立の提案もして、夕食は協力して、食欲の衰えがちな妻もおいしいと言うような料理を一緒につくる。野菜の皮むきや処理は任せ、炒め、揚げ、味付けなどは、叱られながらも私が試みるという次第である。
 身体を動かさなければすぐに部品が錆びつく感じである。4日に一度ほどは名古屋や四日市などへ映画観賞や散策のため出かける。実にゆっくりと8000歩ほどは歩く。毎日の早朝には40分ほど野道や旧東海道を「上皇夫妻のように」散歩する。電動アシストの自転車でスーパーへ出かけもする。必要なものが店内のどこにあるかなど、今では私のほうがよくわかる。

 私が労働問題について社会から執筆や発言を求められることは2024年をもって終わった。遠方に住むふたりの息子はともにどうしてか単身世帯であり、私たちは多くの高齢者の生きがいになっている「孫たちに囲まれて」の大家族の団欒にも恵まれていない。ほかの誰とも会話のない日も多い。「ふたりぼっち」なのだ。それに、例えば海外旅行や高級なグルメなど、体力的にも、また年金外収入がなくなったので家計的にも、できなくなったことが増えている。零落したかつての「中産階級」のつましく地味な生活。貧困層とはいえないとはいえ、それは以前よりはるかに淋しい日々である。
 アイデンティティ(identity存在証明)とは、人がそのために生きている理由ということができる。では、現在の私のアイデンティティはなにか。それは、なによりも老妻・滋子のからだの元気と心の平安、不安からの自由を守ってゆくことにほかならない。今なら私も、自己紹介の機会があれば、かつての妻のように「私のアイデンティティは熊沢滋子の夫であること・・・」と語るだろう。いやほどなく「ひとりぼっち」になるかもしれない。心臓疾患を抱える妻はときに「私がいなくなったらね、これはこうするのよ」と話しかけたりする。それはなによりも考えたくないこと、そう言われると私はいつも不機嫌になる。ほんとうは私たちのどちらも、相方を喪えば生きる気力を保つことが難しいのではないか。だから、少なくともあと数年は、相互ケアをお互いの存在証明とする生活を続けてゆこう。それでいい。そう心定めて、私は今日も雨戸を開ける。

 蛇足ながら、かつての楽しかった海外旅行のアルバムからいくつかのふたりの写真を紹介する。

結婚記念日に歩く(2025年4月2日)

『ハマータウンの野郎ども           ――学校への反抗・労働への順応』再読    (2025年4月20日)

孤独死・覚え書き

(1) 孤独死――重なり合う要因 

 現役世代の受難の極北が過労死・過労自殺とすれば、高齢者の悲劇の極北は、誰にも看取られずに死に、遺体の匂いによって後日はじめて隣人に気づかれる孤独死である。
 警察庁によれば、2024年1月~3月にひとり暮らしで亡くなった人は2万1716人であったが、うち65歳以上は78%の1万7034人。年換算では約6万8000人になるという。
孤独死の事例はむろん高齢者に限られない。今では孤独死者の約23.7%は、たいていは無職・独身の15~64歳層なのだ。しかしやはり、その比率は、60代後半で10%、70代前半で15.1%、70代後半で15.9%、80代前半で14.9%、そして85歳以上で20.1%になる(朝日新聞25..2.23)。それはすぐれて後期高齢者の悲劇である。
 孤独死は、現時点の日本のくらい状況が複雑に多様に絡み合った枢要の社会問題のひとつにほかならないと私は感じる。以下は、その原因の連関などを考えてゆくときの、多くは数値的なデータを省略した素人のおおまかなメモにすぎない。

 個々の孤独死の原因は実にさまざまに異なり、安易な一般化を許さない。それでも、多様のなかの共通因をあえて求めるなら、その主要因は、重層的で相互補強的な次の三つということができよう。
 その1は、なによりもまず、孤立、人間関係の徹底的な稀薄化である。
 周知のように現在の世帯構成では単身世帯が最大多数を占める。仮にそう呼ぶなら「孤独死者」は、配偶者と離死別、次世代との別居、相互の音信不通の状態にあるのが一般的だ。まずもって弱者を抱擁する家族との紐帯がない。そのうえ、地域との社会関係もほとんどもたない。困っている人には手をさしのべたいと思う隣人や地域包括支援センターの職員や役所の担当者は少なくないけれど、ひとつには、「困っていることを知られたくない」という当人のプライド(Help Me!と言いたくない自意識)、もうひとつには、それでもあえてそこに踏み込んで声をかけることを隣人や役所スタッフにためらわせるある種のプライヴァシー尊重意識があって、見守りには限界がある。結局、孤独死者はおよそアドバイザーなきままなのである。
 その2。孤独死の臨界にいたるころ、彼ら、彼女らはほぼ確実に体力も気力も喪失している。おそらく、持病の悪化、感染症の罹患、栄養失調、極度の倦怠感に苛まれていたのではないか。それなのに、いくつかの報道によれば、孤独死者は近くの医院に赴かず、猛暑にも厳寒にもエアコンをつけず(あるいはエアコンは壊れたままで)、ほとんど寝たきりで死を迎える。
 その3。このような生活の佇まいには、かなり以前からの貧窮が深く関わっている。無職の後期高齢者の年金額や金融資産の程度はもちろん千差万別であろうが、孤独死者の多くの収入は、職歴が就職氷河期このかた激増した非正規雇用やささやかな自営業であれば、厚生年金・共済年金ではなくわずかな国民年金のみであり、生活費の不足を補填する貯蓄も底をついている。その貧窮が、例えば食事をカップラーメンだけにし、電気代が心配でエアコン使用を控え、医者にかかることを控えさせる。脚や膝が悪くてあまり歩けず、交通費支出もためらわれるからだ。もちろん身の周りの世話をする家政婦を雇うことなど論外なのである。死者の傍らの財布には150円の現金しかのこされていなかったという報道もある。
 その4。現代日本における公的支援の現状にも注目しよう。まず公的扶助としての生活保護では、「本当に働けない」ことや家族援助の不可能性の証明が容易ではない。地域の役所の職員には受給者減らしのノルマさえあって、窓口規制が厳しい。国際比較すれば捕捉率(受給すべき生活水準の人に対する実際の受給者の比率)が極端に低いのである。
 各市町村の「地域包括支援センター」はむろん、孤独死者の「潜在的予備軍」の訴えを聴きとることはできる。介護保険サービスの受給を可能にする要介護認定基準について私の知見は乏しいけれど、確かなことには特別養護老人ホーム、老人病院、グループホームなどの数は僅少で、入居・入院はとてもむつかしい。それに、体力と気力がひどく衰えた後期高齢者は、サービスを求めて公的機関にアクセスすること自体がふつう困難である。それゆえ、オンライン利用をふくむ申請書類の作成を助け、諸機関に同行して申請を手伝う、ノウハウに疎い後期高齢者に寄り添うグループが絶対に必要なのである。フードセンター、貧困対策の「もやい」、地域ボランティアグループ、労働相談に応じる公式労働組合組織、コミュニティユニオンなどに期待されるところは大きい。
 ここで「孤独・孤立担当大臣」を任命し、孤立化対策において先進的なイギリスの場合を瞥見すれば、この国では、「孤独対応戦略」のなかに、現役職業人それぞれの責務を位置づけている。最初に患者を診るかかりつけ医は、身体的病状の背後にある孤独、貧困、借金苦などの社会的要因をつきとめ、担当行政機関や地域の支援グループや法律関係者に連絡・紹介するよう求められる。郵便配達員は配達区域での孤立の見守りを通常業務の一環としなければならない。学校の教師は、人間関係を学ぶ教育の中に孤独問題を取りこまねばならない・・(インターネット情報2021年8月、明治安田総合研究所「調査レポート」)。それはもうひとりの「ダニエル・ブレイク」を生むまいとする努力ということができる。 
 私たちの国の孤立死者の「予備軍」においては、家族の紐帯の喪失、地域内での孤立、体力と気力の著しい衰え、際立った貧窮、とじこもり――それらが相互に連関・補強しあっている。「誰の世話にもならない」プライドはあっても、広義の社会に関わって生きてゆく力はない。こうして1年に6万8000人が、病死、衰弱死、あるいは餓死を迎え、長く気づかれることなく腐敗してゆく。それは自棄的な緩慢な自殺だ。また、あえていえば社会的な殺人ということさえできる。人口高齢化と格差拡大のなかおそらく確実に増えてゆく孤独死をもう放置できない。  
 ちなみに最近では、ひとりの孤独死のみではなく、老夫婦または片親と子の「同居孤独死」も頻発しているという。ここでは、その要因はひとり孤独死の場合と多くは共通するとはいえ、また別の問題も潜んでいる。(2)では、この領域に立ち入ってみよう。

(2)「同居孤独死」の光景

 最近になって増加しつつあるという「同居孤独死」とは、高齢の老親が死亡していたのに、なんらかの事情で、何日か何ヶ月もの間、同居人がその死に気づかなかった、またはその死を知りながら関係各方面に伝えなかった事例である。その報道は衝撃的であり、まことに寒々とした印象をひきおこす。
 もっとも、老夫婦ふたりが相次いで人知れず亡くなる場合もある。その多くはいわゆる「老老介護」の不幸な結末であろう。介護する妻(夫)のほうが先に死に、認知症や重篤で寝たきりの被介護者がなすすべなく後を追うこともある。しかし、被介護者の配偶者の命がつきたあと、パートナーもまた生きてゆくいっさいの気力を失って、死者の傍らに寄り添って死を待つこともあるだろう。長年のパートナーの懸命の介護のみがひとり残された者の唯一の生きるよすがだったからだ。病死であれ餓死であれ、それは生きる力を喪失し、生きる努力を放念した人の従容たる自死のごときものである。それは悲劇ではあれ、まだしもわずかに救いのある選択であることを、私は十分に肯うことができる。
 もちろん、ひとり孤独死の場合と同じく、ここにも、自分たちの生活が精一杯の子どもたちや親族との疎遠な関係、地域社会での孤立、介護ゆえ重なっていた心身の衰え、きびしい貧窮、それでも国や他人の世話にはならないというある種のプライド、そしてふたりの記憶の世界への閉じこもり・・・という、相互に連関・補強しあう要因が背景にある。社会的には、ふたりながら孤立していたのだ。にもかかわらず、福祉行政がともすれば、「要介護者」でもなく同居なのだから「まだ大丈夫」とみなしていた事情も否定できない。

 息子や娘などと同居しているのに不幸な死を遂げるケースもある。私はかつて、48歳の息子と同居していたさいたま市のもと大工・佐藤孝夫(76歳、仮名)が、2010年8月、熱中症で死亡した事件を記述したことがある(『私の労働研究』堀之内出版、2015年所収)。彼らは、収入は月に7~8万円の孝夫の年金のみ、家賃5.5万円でぎりぎりの食費、電気もガスも電話も解約、自転車でまとめ買いした食品のカセットコンロでの煮炊き、エアコンも冷蔵庫も稼働なし・・・という貧窮のなかにあった。生活保護申請も門前払いだった。そうした深刻な状況を、高齢者の貧困や格差に関する一般資料の数値も参照しながら、かなりくわしく分析したものである。
 私がとりわけ注目したのは、15年来、失業または無業だった同居の息子・満夫のことだ。彼は前職の運送会社ではトラック運転手であり、その過重労働ゆえにひどく腰を痛めたが、企業内での職種転換はなく、95年頃に30代前半で退職せざるをえなかった。その後は雇用情勢の悪化のなか、腰痛症を抱えた40代の満夫は、非正規雇用でも再就職の機会に恵まれなかった。こうして彼は、空しい求職活動をくりかえしたあと、気力を失って無業者になり、父の乏しい年金にパラサイトするに到っている。
 佐藤孝夫は満夫に看取られて死に遺体も放置されなかった。その意味では、このケースは同居孤独死ではない。しかし私がもう15年も前の佐藤親子の体験を再現したのは、こうした事件はとても過去のこととは思われないからだ。それどころか、佐藤親子の軌跡は、その後、広く普及してメディアに注目されるようになったいわゆる<80・50問題>の先駆であり、その最も暗い側面の現れにほかならない。しばしば同居孤独死の前提となる<80-50問題>に、ここでしばらく立ち入ってみよう。

 <80・50>という世帯の類型のひとつは、配偶者と離死別した70代~80代の親と、シングルで無職の50代前後になる息子や娘との同居である。息子や娘は仕事を失っているか、または老親の介護のため「介護離職」している。親に潤沢な資産がある例外的な場合を別にすれば、唯一の収入源は老親の年金であり、たいていはひどく貧しく、外出や文化の享受にみる生活範囲はきわめて狭い。老親の身体の自由がきかない場合はいっそうそうだ。上述の佐藤親子のように、それはふたりながらのひきこもりに近いのである。
 その背景には、就職氷河期以来、団塊世代のかなりの部分が体験した不遇の職歴がある。例えば非正規雇用であれば「介護休業」の取得もむつかしく、ブラック企業の社員であれば過重労働からくる心身の疲弊が稼げる仕事への再挑戦の気力を奪っている。ともあれ、当面の老親の介護は、あるいは職業生活よりも生きがいのある、愛を感じる日々かもしれない。とはいえ、ふたたび佐藤親子を顧みてみよう、父・孝夫を死に到るまで看取ったあと、息子の満夫は立ち直ってまた社会に復帰できるだろうか? 孤独死の予備軍になってしまうことはないだろうか? 介護した老親の死後、息子や娘の一定部分が、求職活動なき無業者、「ミッシング・ワーカー」にうずくまってしまうという。その数およそ103万人という勢いである(NHKスペシャル取材班『ミッシングワーカーの衝撃――働くことを諦めた100万人の中高年』NHK出版新書、2018年)。

 <80・.50>のもうひとつの類型は、配偶者と離死別した老親と、たいていは有職でそれなりに独自の生活を営む息子との同居である。この類型では、経済的な貧窮はさほどではなく、介護の負担もなく、親と子は別室で、日々の密接なコミュニケーションなく暮らしていることが多いようだ。息子は中年層に限られない。しかし、ここにこそ、同居孤独死のもっとも荒涼たる風景が展開する。 
 2017年から2019年の3年間、東京23区、大阪市、神戸市では、高齢者550人の死が4日以上知られなかったという(日本経済新聞2021年6月13日)。なんというふれあいの断絶だろうか。息子は老親が死んだことを知らなかったのだ。いや、おそらくより多くのケースでは、息子は立ちこめる腐臭によって老親の死を知りながら、知らせなかったのだ。
 小林政弘の監督・脚本の映画『日本の悲劇』(2013年)にみるように、親の年金支給の途絶を怖れて息子がその死を隠していたということもある。けれども、親の遺体放置の事件は、このように短絡的ながらもある「実利的な」判断によるものばかりではあるまい。 完全には理解し納得することができないけれど、報道を参考にすれば、私はこのように推測する――同居の息子(娘の場合は少ないように思われる)は、老親の死という取り返しのつかない事態に遭遇して、まもな判断ができない心理状態に陥り、うろうろするばかりなのではないか。彼は呆然として、すぐにどうしていいかわからず、帰宅を避けたり、娯楽施設に入り浸ったりして、親の死なんて(本当はあり得るのに)あり得なかったことのように心を装い、判断を中止して数日を彷徨するのではないか。犯罪者の「心の闇」と言われるけれど、こうしたビヘイビアに奔らせるのはむしろ非情の「心の空白」である。
 ともあれ、一時的にせよ、このように意識的に親の死を念頭から去らせることができるのは、もともと老親は何者でもない、ただ自分とは無関係の厄介な存在とみなしていたからであろう。現代日本の家庭の崩壊の極北では、親子の絆はここまで無化していたのだ。その荒涼たる光景にあらためて慄然とする。しんしんと心が痛む。いま86歳の私にはそして、この日本の空気のなかで生きている限り、孤独死・同居孤独死の悲劇さえも、自分にはまったく無縁のこととは思われない。

労働研究回顧・補論 2015年以降の4著作  (2025年2月18日)

 2015年頃、私はもう新しい労働研究はできないと覚っていた。それでも、表現意欲はなお執拗だったというべきか、その後2023年までに4冊の著書を刊行している。市場性はいまひとつながら、「老いてからの子」のように、最晩年の4冊への私の愛着はつよい。広く読まれたいという願いもあって、HPに17回まで連載した「労働研究回顧」の補論のかたちで、あらためてみずから紹介を試みたい。

1,『過労死・過労自殺の現代史――働きすぎに斃れる人たち』
  (岩波現代文庫、2018年)
 
 これは過労死・過労自殺という、企業社会に生きた人びとの極北の受難を、個人の職場体験の細部に及ぶ再現を通じて描いた2010年の『働きすぎに斃れて――過労死・過労自殺の語る労働史』に、あとがきとその後の事例検討を書き加えた文庫本である。この大著は、終章において、過労死・過労自殺の悲劇をもたらした重層的な要因を、ベースとしての日本企業の労務管理、行き届かない労働行政、そしてやむなく「強制された自発性」に殉じた労働者の孤独・・・という順序で多面的に考察している。とはいえ、総括の分析は帰納法的であって、この本の内容はまずは、克明な裁判資料(判決や公判記録)とか当事者の記録とかを主資料とした、約60人の労働者の死に到るまでの職場生活の軌跡を細部にわたって再現する物語にほかならない。彼、彼女はなにに苦しみ、どのようなはかない望みを.抱いたのか。また無念の遺族たちはどのような心の葛藤を経て告発に到ったのか。これは、この悲劇に責任を負うべき企業労務やシステムを告発する重層的な分析であるとともに、なんらかの事情でやむなく死の臨界に赴いた数多の労働者たちへの鎮魂の書ということができる。
 私は2010年の原本をを研究史後期の代表作と位置づけており、それだけにこれが「現代の古典」とも称される岩波現代文庫に収められることはこの上ない喜びであった。今でも、死者たちひとりひとりのどうしようもない心身の疲弊の悶えや遺族たちのふかい悲しみを伝えるエピソードのあれこれを、メモなくしても語ることができる。もし著作1冊を自薦せよと言われるならば、それは文庫本『過労死・過労自殺の現代史――働きすぎに斃れる人たち』といえよう。

2,『私の労働研究』(堀之内出版、2015年)

 この書は、一章と終章において、時代の変化を反映し時期を追って展開した私の労働研究のテーマ、問題関心、方法意識、仕事を支えた個人生活の体験、学会・労働界との微妙な遠近関係などを語っている。中間の諸章には、2010年~13年にかけて雑誌「POSSE」に連載した現代日本に枢要の労働問題11項目についての凝縮的な筆致の小論文、これも長年の問題意識の一角にあった「公務員バッシング対抗論」が来る。そればかりか続いては、内容はかなりアカデミズムを離れ、ホームページ・エッセイ集「労働・社会・私の体験」、23冊の書物の紹介と批評、「スクリーンに輝く女性たち」と題する14本の映画評論がある。ふりかえれば、四日市での市民運動参加、研究会「職場の人権」との深い関わりの軌跡、時代の深刻な問題への発言、感銘を受け、なにかを教えられたた書物や映画の評論など、すべては語るに値するものとは思うけれど、それらはしょせん個人的な精神史に関わる体験であり、やはり気恥ずかしい思いはどこかにある。
 著名人でもなく、波瀾万丈の人生でもなかった私という一介の研究者にフォーカスしたこのような著作がどれほど世に迎えられかは心配だった。しかし私は、ひとりの女性編集者の思い切った企画の提案に舞い上がってしまったのだ。体裁のユニークなこの本は、案の定、論壇ではほとんど注目されなかった。けれども、これまでの私の著作に親しんでくださった方々からは、アマゾン・レビューなどにおいて、心の踊るいくつかの感想・評価に恵まれた。舞い上がってよかった。今はこんな本を刊行することができた幸せをしみじみ思うことである。
 以上の2冊は、それでも出版社・編集者の要請に応じた刊行である。しかし、以下の2冊は、友人たちの支援と協力があったとはいえ、誰よりも私自身が出版社を模索せざるをえなかった難航の刊行であった。

3,『スクリーンに息づく愛しき人びと――社会のみかたを映画に教えられて』
  (耕文社、2022年)

 2015年~21年にかけて、私は国公労連編集の『KOKKO』誌に、同じタイトルで映画評論を連載した。青春前期から長らくスクリーン上の人びとの佇まいを思想形成の一つの素材としてきた私にとって、それは楽しい仕事であった。
 その連載で私が試みたのは、『万引き家族など』一作をくわしく論じた章もあるけれど、主として用いたのは、いま評判の新しい名作・佳作を、同じようなテーマを扱う、または別の国や別の映画作家の、あるいは同じ監督の旧作も紹介しながら、両者の違いやその背景になる時代の変化を論じ、そこから社会と思想の課題を導くように叙述する方法であった。例えば、章のタイトルでいえば、「山田洋次が見失ったもの」ではこの巨匠の1960年代の秀作に対する80年代以降の作品のものたりなさを、「引き裂かれた妻と夫の再会」では中国の『妻への家路』、フランスの『かくも長き不在』、アメリカ『心の旅路』を、「日本の女性の半生・淡彩と油彩」では、『この世界の片隅に』と『にっぽん昆虫記』を、「アンジェイ・ワイダの遺したもの」では、『残像』と『カティンの森』を、「兵士の帰還」では『ディア・ハンター』、『我等の生涯の最良の年』、『ハート・ロッカー』を、「ホワイトカラーの従属と自立」では、アメリカの『アパートの鍵貸します』と日本の『私が棄てた女』を、多方面から比較して観賞するというわけである。
 社会科学の徒であり映像芸術論には疎い私の作品選択は、どちらかと言えば、社会派の物語、その視点をもつシナリオへの肩入れに偏しているかもしれない。けれども、映画は事実としての社会や歴史を教材として学ぶものではない。なによりも、すぐれたフィクションがつきつける真実としての、生身の人間の心の揺れを掬うものだ――そんな観賞態度は貫かれていと思う。たかが映画の絵空事! と一蹴できない興味ぶかい語りになってるはずである。
 だが、そう自画自賛しても、映画評論の本は数知れない。映画評論家としては無名の私が書いた『スクリーンに息づく愛しき人びと』が刊行されるまでは、ことのほか難航であった。それでも友人たちの尽力があって、どうにか自費負担はまぬかれるかたちで、関西の耕文社からの出版にこぎつけることができた。そのうえ、いっそうたくさんの友人たちが、出版条件であった自己買取分100部ほどの販売促進にも協力してくださった。広報も乏しく販路はなお狭いようである。しかし、ある読者の感想では、これはおもしろく、「泣き笑いの向こうにみえるもの」を透視させる含蓄ある映画の本であった。

4,『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動のレジェンド』
  (旬報社、2023年)

 1984年~85年のイギリスにおいて力つきるまで新自由主義の旗手マーガレット・サッチャーの大規模な閉山・人員整理の強権行使に粘り強く抗った炭坑夫たちのことは、いつか書き残したいと長らく私は思い続けていた。83歳にもなってもう新しい研究の余力はないと見通した22年春、長年の負債を返すような気持で、私はこの大ストライキを記述する決心を固めたのだ。それ以降、甲南大学退職時以来15年以上死蔵していた何冊かの英文の関連文献を精読し、詳細なノートや年表をつくり、レジメの構想にもとづいてエピソードを配置するという心労多い作業に入る。もうかつてのように週6日、午前も午後も働くことはできなかったが、年末の執筆完了まで、いつもストライキの群像を正確に描いているだろうかが念頭をさらず、たびたびの早朝覚醒にも襲われた。いわば「残存能力」のすべてを注いだと思う。
 なおこの間、もと筑摩書房の熟達の編集者・岸宣夫さんのアドヴァイスに従って、今なぜこのストライキを語るのかを明瞭に示す序章を書き加えている。また研究者の次男・透による、前著映画本に引き続く人名や地名の表記についての細かな校閲も、老いのボンミスも少なくなかっただけに、きわめて有益であった。出版の努力は、テーマや販路など諸般の事情ゆえにいくつかの出版社で実らなかったけれど、ついには労働関係の出版で伝統ある旬報社の英断に恵まれた。おそらくこれが私の最後の著書となる。
 この本は、最後の2章ほどで、炭鉱労働組合のいわば必然的な敗北の理由を分析する。ついで体制論的・思想的な総括として、敗北は喫したとはいえ、坑夫たちの産業内行動(ストライキやピケ )への執着が競争至上を旨とする新自由主義に対抗することの決定的な意義を述べ、けれども一方、徹底した産業民主主義の追求が引き受けなければならない体制にとっての課題を考察している。そこは、『国家のなかの国家』(1976年)以来の私自身の労働運動思想の総括でもあった。
 けれども、主内容である1章~6章は、1年にもわたるストライキの軌跡の物語だ。権力側では、炭鉱労働組合を完膚なきまでにたたきのめそうとするサッチャー政権の周到なスト対策と毅然たるアンチ・ユニオニズムの姿勢、石炭公社の硬軟織り交ぜたスト破り優遇措置と「復職運動」、裁判所による刑法上・民法上の懲罰、そしてくりかえす警察の暴力と逮捕・・・。これに対抗して労働側は、「非合法」を辞さずピケットラインを護持しようとする警官側のそれとは非対称的な貧弱な「武器」によるバトル、坑夫たちの体を張る強靱な連帯、家族たち・女たちの不屈の共闘、炭鉱コミュニティの身銭を切る助け合い、全英規模または国際的な支援の広がり、組合諸機関での炭鉱労働組合支持とそ逡巡に揺れる論争、迫り来るあまりにもきびしい困窮・・・。しかし最後にはついに、坑夫たちは、閉山の最終決定に関する労使共同決定の保障を獲得できないと見定めて、組合旗を戦闘に整然と職場に戻るのである。義理堅い坑夫たちの「ラディカルな保守主義」の人間像、逞しい女たちの炭鉱ムラ的フェミニズムの台頭にも、私は深い関心を寄せている。
 「細部にこそ神は宿り給う」とか。闘いの軌跡の描写は細部に及び、多くは固有名詞をもつ無名の男たち、女たちのエピソードをもって綴られる。個人を凝視することこそ、私の伝統の分析作法なのだ。この本を読んだ人はしばしば、サッチャーのあくなき強面やピケ上のバトルの流血に驚き、炭鉱ムラの創意に満ちた助け合い、懸命のカンパ活動によって行われたクリスマスパーティでの子どもたちの弾ける笑い、涙をこらえて粛々と歩む最後の復職マーチなどに胸を熱くしたと感想を語ったが、そう、それら大ストライキのなかのリアルな労働者の具体的なありようこそ、私がもっとも読まれたかったところであった。
 この本は、労働史研究としては文献も限られていて弱点も多いことだろう。また、合理的なリアリストからみれば、この「イエスタディ・バトル」を描く私の叙述のスタンスはいわば「時代遅れ」であり、産業民主主義への思い入れは過剰にすぎると感じられるだろう。そうかもしれない。だが、ひたすら政策の成否を重視する現実主義者たちは問うべきであろう――なかま同士の競争が熾烈化し格差が拡大する新自由主義が後退を見せず、インダストリアル・アクション(ストライキやピケ)に具現化される産業民主主義が徹底的に衰退している、例えば現代日本の現実をみるとき、私のような議論は本当に時代遅れだろうか?2025年の今、労働研究からほぼ完全に引退した私に、『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動のレジェンド』を最後の著作としたことに悔いはない。 

<なぜ今、労働組合なのか>を語るなら・・・ (2025年2月2日)

 労働組合運動の実践者であれ研究者であれジャーナリストであれ、<なぜ今、労働組合なのか>を問うならば、この課題はおよそ次のように解いてほしいと思う
 まずは、日本の労働組合の現実の営みをみつめ、先進国の水準に照らしてその実態を忌憚なく批判することからはじめるべきであろう。そのためには、連合や傘下単産(これは産業別組合ではない!)の幹部スタッフたちの「検討中の構想」にもまして、財政的にも決定権においても枢要の存在である単組、企業別組合の現実のビヘイビアが問われなければならない。
 着眼点としてはなによりも、労働者が日々不安やしんどさを痛感している職場の諸問題――主として正社員のパワハラや過重ノルマ、全人格的な査定の強いる競争と選別、ひいては過労死・過労自殺、主として非正規労働者では広範囲の処遇の被差別が掬われねばならない。個人レベルの受難とされているこれら日常の諸問題こそが、企業の労務管理との対決を避けて、いま企業別組合が守備範囲外として傍観している事柄なのだ。それこそが一般の労働者が労働組合というものにもう期待しなくなっている最大の理由である。
 カスハラ対策や「生産性の高い部門」への労働移動の斡旋や保障、中小企業の人件費アップの価格転嫁の公的支援、労働協約の拡張適用など、労働運動のフロンティア拡大を国の施策とともに計る上部組織のボスたちの構想は、それ自体むろん望ましい。だが、企業別組合が、例えば所属企業に下請単価のコスト転嫁を認めさせる、非正社員に正社員と同じ賃金システムや同一価値労働同一賃金を適用させるなど、労使対決が不可避になる実践を迫られない限り、単組は批判の外にあり、そこでのボスたちは労使協力に安んじることができる。自治労福岡の非正規水道検針員への労働協約の拡張適用といったすばらしい実例はないわけではないけれども、「単組はなにをしているか」の検証を避けたフロンティア構想の言説はどうしても実践例の紹介を欠き、実例は総じて欧米の出来事になる。
 どのような論者であれ、日本の労働組合論の取材対象は連合、連合系単産、またはその流れに親和的な研究者に限られてはならない。視線が偏ると、「分析」の彫りは浅くなる。取材対象は、全労連、全労協、連合系ハートフルユニオン以外のコミュニティユニオン、労働弁護士や今の労使関係に批判的な論者にも及ばねばならない。いわゆる「左翼」の排除は偏狭だ。なぜなら、職場の日常の受難、非正規労働者の差別撤廃、中小企業の労働条件向上などのために体を張ってきたのは、すぐれてそうした担い手だったからである。
 取材対象としての「左派」の包括は、労働組合の大衆的な行動形態、例えばストライキの可能性にもっと関心を払うことに通じる。例えばほどほどの賃上げが是認される今の春闘論議でも、労働組合のボスたちもマスコミの報道も、ストライキの可能性を口走る者は誰もいない。周知のように日本でのストライキの異様な僅少さは先進国では異例ではないだろうか。欧米の組合運動に学ぶべきは、組合員以外の市民・住民との連携ばかりでなく、最近における組合のしかるべき産業内行動(ストライキ、ピケ、ボイコット、街頭行動)の著しい復権である。日本ではすでになぜそれが想定外になっているかを、国民思想の課題として立ち入って考えねばならない。
以上のコメントは、ジャーナリスト・藤崎麻里の『なぜ今、労働組合なのか――働く場所を整えるために必要なこと』(朝日新書、2025年)という近著への全面的な批判にほかならない。さよう、藤崎著書は、上記で「・・・ねばならない」「・・・べきである」というところにことごとく背反する。労働組合の意義がまったく見失われている日本に、藤崎は労働組合って捨てたもんじゃない、こんなこともできるよと語っている。組合運動に希望をつなごうとしている意欲と善意には深く共感する。できれば温かい感想を寄せたかったと思う。しかし、目前の労働組合の現実にあまりに無批判で、パワハラもノルマにも、非正規労働者のなかに増えつつある貧困層の生活実態にも言及されない藤崎本の内容は、連合や単産の幹部たちには迎えられるかもしれないけれども、普通のサラリーマンやOL、ブラック企業との闘いに苦闘する「非正規春闘」のコミュニティユニオンの担い手たちにとってはまことに期待外れというほかはない。錯誤の善意というべきだろうか。

新年1月(2025年1月21日)

 朝6時ごろ起床。雨戸を開ける。新聞を精読する。午前中は40分ほど近隣を二人で散歩し、読書したり(このところは『なぜ今、労働組合なのか』というなにかとものたりない新書とか胸を剔るようなハン・ガンの小説とか)、思いつくままにエッセイを書いたりする。昼食後のシェスタは欠かせない。それからは、日によって、ワンコーナーの断捨離、書類や食品の整理、再生ゴミづくり、簡単な庭作業、ときに好きな映画のDVD(最近では大戦中イタリアの村でのナチスの虐殺を背景にした秀作『やがて来たる者へ』)などで過ごす。そして夕食準備の手伝い。炒めたり揚げたり味付けしたり。野菜の処理は妻に頼むので、調理はまだ修行中である。洗いものでは主役だ。夜はTVでドキュメントや連ドラを2本ほどみて22時には床につく。2週間に3度ほどはふたりで外出するが、検診・診察のほかは、総じて義務のない映画観賞やカジュアル・グルメやウォーキングだ。しかし在宅日でも、日にひとつは「なにか」をしたい・・・。
 妻の心房細動・心臓弁膜症、物価高騰によるまったくの年金生活のゆくえ、なによりも全般的な体力の衰え、そして「トランプが怖い」などいくつかの不安はある。とはいえ、今のところは総じて、心の高揚はともかくとすれば、まずは平穏な毎日である。旧東海道や野道を実にゆっくり歩いているこの80代半ばのふたりに幸あれ!

トランプが怖い(2025年1月12日)

 2025年、平穏な日々を願う私たちをもっとも不安をもたらすのはもうすぐアメリカ大統領になるトランプの政治である。トランプが怖い。
 ひとりの庶民の精査なき印象の素人論議かもしれないけれど、トランプは、国益と自由の名のもとに、「弱肉強食」の界隈をいくらかは掣肘する公共サービスと社会的規制を担う公共部門を徹底的に削減するだろう。なにしろ国民規模の健康保険制の主張者さえ「過激な社会主義」と断じる彼のことだ。制約のない新自由主義の施策が推進されよう。格差是正の正義論などはもう通らない。トランプに進んで協力するIN界の巨頭ザッカーバーグが、これまでのファクトチェック作業をやめることの結果も深刻である。NETにあふれる根拠のないフェイクに熱狂する、およそ知的検証から自由な右派ポピュリズムの徒が「世論」をつくる傾向はいっそう強まるだろう。
 対外的には過大な関税が、貿易の困難化を通じて各国の経済を苦境に陥れる。そればかりか、トランプの国防論は、メキシコ湾をアメリカ湾と呼ぶ、グリーンランドの領有を主張するなど、対外膨張的だ。一方、ヨーロッパの排外主義的右派政党が支援される。ウクライナについては、北の暴君プーチンと結託して、ウクライナに侵略者ロシアへの領土の割譲を前提にした「平和」を「達成」しようとしている。膨大な犠牲に耐えて、ロシアのような国になりたくないと青息吐息の抵抗を続けるウクライナの人びとの不安は想像するにあまりある。
 日本にも、集団安保の負担金が確実に増やされることに留まらない困難が確実に降りかかる。その日本では、投資ガールたちがトランプ景気による株価上昇にはしゃいでいる。石破政権は、そして日本の民衆は、経済、政治、社会のありかたについてトランプの圧力と闘うことができるだろうか? 核兵器禁止条約への加盟を訴える日本被団協の老いた代表が石破首相との会談の虚しさを憮然として語るところに、まだしもほのかな希望がある。

2025年新春 賀状に代えて       (2025年1月1日)

 あけましておめでとうございます。
 労働研究者としての熊沢誠の仕事は昨年をもって終わりました。FB・HPの場で、その時期の課題、身辺のあれこれ、読書と映画などについてエッセイを綴ることは続けますが、私たちふたりはともに87歳を迎えます。日常的には、ともに体力や記憶力の衰え、時代の激変についてゆけない感性の鈍化を嘆きながらも、いたわり合い助け合って、とくに滋子のよわくなった心臓に気を配りながら、時折のささやかな「祭り」を楽しみつつ、ゆっくりと、もう遠くまでゆけないけれど、歩んでゆきます。
 予想されるところ、世界でも日本でも、平和と民主主義は危うく、生活水準の維持・保障も心もとない2025年。焦慮と鬱屈が募りますが、もうなにもできなくて、その点では個人としてやりすごす心の砦を築くほかありません。しかし、なお発信と行動の機会にも能力にも恵まれたみなさまには、勝手ながら期待させてください――今こそ思い定めてラディカルな思想の営みを!

 末枯の野をわたりゆく日の遠さ 加藤楸邨

熊沢誠/滋子 HP<夢もなく怖れもなく> https://kumazawa.main.jp

大分国東の長安寺にて